皆既月食の思い出

Memory of the total lunar eclipse

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(C) 1996-2001 Snowy Yuki. All rights reserved.
『天界』2001年3月号〜6月号掲載


 時によっては何年も続けて見られない。でも皆既日食ほど珍しくはなくて,おとなしく日本列島に貼り付いていてもそのうち見られる。それが皆既月食。
 1982年。私の人生の大きな曲がり角であったこの年は,皆既月食の当たり年になっていた。この年起こった3回の皆既月食のうち,2回が日本から観測可能だったのだ。

 1982年1月。
 時に私は,星に恋い焦がれる受験生。いや,毎晩『蛍雪時代』の大学案内を眺めて受験生の雰囲気を楽しみながらも実は空を見上げることしか頭にないという,受験生と名乗るにはばかられる高校3年生だった。模擬試験を受けに行っても,余った時間は窓の外の空を見上げ,試験問題の端っこに空に捧げる詩を書いていた。
 そんな私にとって,1月10日の深夜から明け方にかけて起こった皆既月食は,国公立大学共通一次試験の1週間前であるとか,自分は志望校1校しか受験しないのだなんて事情をすっ飛ばしてしまうに足る魅力的な現象だった。年明け早々から月食のことを考えてそわそわし,スケッチ観測の計画を立てるべく『天文年鑑』を引っぱり出し,時刻を調べ,手作りのスケッチ用紙を準備し,晴れることを祈っていた。

 太陽と地球と月が一直線に並ぶという画期的な時間に,誰がのんびり受験勉強なんてしていられようか?! 絶対観測しなければ!

月食のスケッチ

 別に天体が一直線になろうとなるまいと受験勉強などしないくせに,私はそういう大義名分を掲げて1月9日の夜を迎えた。この日は月食観測のみならずラジオドラマのエアチェックもしなければならず,天文三昧の夜を過ごすため,私は早々に自室へ引きこもった。
 ラジオドラマというのは,民放で21時から放送する「星になったチロ」。その頃の私は,ひとたび“星”と聞けば,一つ逃しても損をしてしまうみたいに夢中で動いていたのだった。

 そうして待ちに待った1982年1月9日の夜は更けていく。
 私はラジオを聞きながら天文台長を勤めた稀な犬チロの生涯に涙を流し,ドラマの余韻を味わいながら何度も寒い外へと足を運んで空を見上げた。
 天気は上々。それは素晴らしい快晴の,そして凄まじいまでに放射冷却が厳しい寒い夜だった。午前3時すぎの半影食始まりから,午前6時半すぎの食終了まで,私は寒さに凍えながら9枚のスケッチをとり,冬の熊本の遅い薄明が始まった頃,満足してようやく眠りについた。
 観測方法なんかまるで分からない。機材も小さな双眼鏡一つ。大学入試の1週間前で相談する相手もいない。そんな中でどうしても記録に残したいと願って見たこの月食は,当時の私の星への想いの結晶みたいに尊くて忘れられない。赤銅色の,いかにも皆既月食の典型みたいに見えた月食だった。そして,これが故郷熊本での私の最後の天体観測になったのだった。

*****

 1982年12月。
 故郷から離れること約1000キロ,私は静岡市の住民になっていた。
 あまり気が進まないながらも行ってみることにした大学は,それでも何時の間にやら私の居場所になりつつあって,休暇が始まると同時に慌てて帰省した夏休み前の自分が嘘のように,年の瀬の迫る30日の夜,電子ロックで構内に立ち入ることもできなくなった大学の周辺を,私はまだうろついていた。

 そう,12月30日の夜,この年2回目の皆既月食があったのだ。そして,その観測場所に,私は新天地静岡を選んだのだった。
 たった4年,しかし大きな4年を託した静岡の街は,私にとってやがて出ていく通りすがりの地でありながら,同時に一瞬一瞬を大切に過ごさねばならない特別尊い場所でもあった。御前崎と富士山が見えるドームで共に過ごした星仲間は,当時も今も私にとって大学生活そのものだ。そんな彼らと共に年の瀬を過ごして見る月食は,新たな場所で歩み始めた自分を確かめるための区切りだったのかもしれない。

 星仲間。好むと好まざると受験生として扱われる高校3年生だった頃,私はどれほどそれを欲していたことだろう。3年生になると同時に自動的に地学部を引退しなければならず,学校での天文活動の場を失った後は,地域の同好会である熊本天文研究会の月例会だけを楽しみに過ごしていた。やっと大学という新しい場所を得て,私は夢中で星好きの集う地学研究会の扉を叩いたのだった。

 その地学研究会は,本気で地学に取り組む姿勢が無いならすぐにでも追い出されそうな厳しいサークルだったが,私にはその厳しさが心地よく,通りすがりの地で与えられる限られた時間を,少しでも長くこの仲間達と共に過ごしたいと願うようになっていた。
 こうして少しずつ動きだし,初めて自分一人で写真観測を試みようと思ったのが,この年末の月食だった。年明けの孤独な月食スケッチの日から約1年。私の環境は何と変わってしまったことだろう。

 12月中旬。補講期間も終わり,初冬の静岡の暖かく穏やかな日溜まりの部室で,私は月食写真のための露出計算をし,必要なコマ数を計算し,撮影計画を立てていた。サークルのメンバーの多くはクリスマスを過ぎたあたりから帰省してゆき,月食の頃になると下宿生で残っているのは私を含めて3人だけ。しかも私以外は隣県出身者ばかりという状況になっていたが,私は静岡に残っていることが嬉しかった。

 仕事納めの12月28日午前中,大学には電子ロックがかけられ構内への立ち入りが不可能となる。私たちはその前に大学から観測機材を運び出し,それぞれの下宿に分散して持ち帰った。ある人は赤道儀の架台を,ある人は鏡筒を,ある人はバランスウエイトを,というように,機材を小分けし自転車や原付で運んだのだ。
 よく晴れ渡る太平洋側の冬。天気の心配をする者など誰もなく,居残り下宿生と自宅通学生合わせて数人が,前夜祭と称して29日の夜から集い月食を待ちながらの年忘れを行った。今思えば,またとないのんびりした師走のひとときを,この月食が贈ってくれたのかもしれない。
 そうして月食当日。私たちが機材を運び込んだのは,観測場所に選んだ大学の運動場だった。雲一つ無い空。年始の月食を思い出させる寒い夜。この時の月食は,宵の早い19時前から欠け始め夜半前の22時過ぎには終わる楽な時間帯だったが,それでも身体は凍え,三脚は土に凍り付いていた。

 寒い中,凍える手で機材を操作していた私たちは,やがて次第に欠けていく月に驚きの声を挙げた。そう,とてもとても暗かったのだ! 年始の月食とは全く趣を異にした食の進行は,月食が毎回同じでないことをまざまざと見せつけ,赤銅色の皆既月食しか知らない私を呆然とさせた。
 途中から,せっかく計算した露出時間も全く役に立たないものとなり,私は諦めて勘でシャッターを切り始めた。予定していた露出時間では明らかに短すぎる。写真に期待が持てなくなったので,せめて月食の様子を自分の目で憶えておこうと,神経を集中させて月を見つめた。この暗さを忘れてはならない!

月食の絵

 このときの月食は,皆既に入ると月と闇とを見分けることがほとんど困難なほど暗くなり,私は後になって,それが1982年4月に噴火したメキシコのエル・チチョン火山の影響だったことを知った。
 エル・チチョンは標高1350mの無名の火山だったが,このときの噴火で160名もの犠牲者を出し,世に知られることとなった。多量の噴煙は高さ38kmにまで吹き上げられ,噴煙が達した高さに関して言えば,この噴火は過去70年間で最大のものだったと聞く。噴煙は,成層圏の風に乗って赤道から北緯30度あたりまでの上空をリング状に取り巻き,噴火から約3ヶ月後の7月6日(日本時間)にアメリカ大陸で起こった月食を異常に暗いものとした。この頃の夕焼けや朝焼けがやたらと赤かったことも印象的だったが,それが,噴火から9ヶ月近くも経った12月の月食にまで影響を及ぼすとは驚きだった。私は月食によって火山の噴火と地球環境の関係を初めて体感し,戦慄していた。
 月食が終わって再び仲間の下宿に集まった私たちは,初めて見る暗い皆既月食に興奮冷めやらぬまま語り明かし,大晦日を迎えた。私にとって長く変化に富んだ1982年は,皆既月食に始まり,皆既月食と共に終わろうとしていた。

 その後,大晦日の夜から5日間だけの短い帰省中に,受験の頃支えてもらった年上の友人に言われた言葉を今も忘れない。
 「月食を一緒に見ようと思って何度も電話したのよ。静岡で見るって聞いて,寂しかったけど嬉しかった」
 以来,私にとって月食は,故郷を離れた記憶を呼び覚ます切ない天文現象となったのだった。

*****

 時は行き,西暦2000年が訪れた。
 私は日食や月食がサロス周期で繰り返すことを体験できる年齢に達し,再びやってきた皆既月食の当たり年を京都で迎えていた。6585日の時を経て,1982年に起こった月食の1サロス目を見ることができる。サロス周期の中に自分の歴史を重ね,太陽系の暦の中で生きていることを肌で感じ,私はただ単純に感動していた。

 2000年7月。
 京都市内の会社に勤める私は,「太陽と地球と月が一直線になる画期的な夜に受験勉強なんてやってられるか!」と突っ走った高校生の時ほどの熱さは持っていなかったものの,祇園祭宵山に浮かぶはずの皆既の月を感慨深く待っていた。
 1982年に起こった3回の皆既月食のうち,唯一日本で見られなかった7月6日の月食と同じサロスの月食が,今回観測可能となっていたのだ。

 あのエル・チチョン火山の影響を受けて異常な暗さを示したという1982年7月6日の月食は,アメリカ大陸から太平洋にかけての地域で見られた最大食分1.723の深い月食だった。
 同程度の部分日食の中間で起こる月食は,月が本影の中心付近を通る深い食となる。1暦年間に部分日食が4回起こる年の月食は,少なくとも一つ,このような月食になるという。2000年7月16日〜17日の皆既月食は,1982年以来の,最大食分1.773の深い月食なのだった。
 深い月食の面白さは,食の時間が長いだけではない。本影の中心近くでは地球大気の屈折による赤い光が少なくなるため,暗くなることでも注目される。梅雨末期の晴天が期待しにくい季節ではあったが,2000年7月の月食はかなり前からマスコミで取り上げられ,話題になった。

 京都で幾年もの月日を見送った私にとって,7月は,いつのまにか祇園祭の月となっていた。7月16日といえば,祇園祭が最高潮に盛り上がってくる宵山ではないか。
 宵山では,各山鉾の駒形提灯に灯がともり,鉾の中から祇園囃子が奏でられ,山鉾町の町会所では翌日の山鉾巡行を飾る豪華なご神体・胴懸などの秘蔵の品々が展示される。また,路地には沢山の出店が並び,歩行者天国になった四条通り,烏丸通り,室町通り,新町通りは,祭を楽しむ人々で埋め尽くされる。祇園祭の中心である八坂神社でも,山鉾巡行を控えて鷺舞や田楽,神楽の奉納が行われ,どちらを見ても祭り一色となるのが7月16日の宵だ。西暦869年に祇園御霊会(ごりょうえ)として始まった祇園祭は,様々な困難を乗り越え受け継がれ,7月,京都の街全体を熱気で包むのだった。
 日本文化にも歴史にも縁遠い私だったが,この祭をひとたび見るや,祇園祭が秘め持つ精神的高揚や,民衆の手により守られてきた山鉾たちの凛とした存在感に圧倒され,魅了された。そして7月を楽しみに1年を送るようになっていた。

 けれども年月の流れは私を京都から連れ去ろうとしており,2000年7月は,祇園祭を愛する私が京都で過ごす最後の7月になるはずだった。
 祇園祭のように1ヶ月も続く長い祭は,地元で始まりから終わりまでを追いかけて初めて全貌が見えてくる。そう思った私は,最後の7月を祇園祭と共に過ごす月と定め,宵山の月食を,祭のただ中で観賞しようと考えた。


 悠久の歴史を背負った祇園祭宵山での貴重な皆既月食を,一体どこで眺めよう?
 私は,この月食が生涯忘れられない月食の一つになることを予感しながら,祭の行事表を眺めていた。
 山鉾町はダメだろう。華やかに山鉾が並ぶ四条通りや室町通りは,雰囲気はあっても混雑していて話にならない。山鉾町巡りは宵宵山までに済ませ,宵山は八坂神社に行くのがよさそうだ。

 祇園祭といえば,“動く美術館”とも賞される華やかな山鉾巡行がハイライトとして取り上げられるが,本当は八坂神社のお祭りで,八坂神社に住む素戔嗚尊(スサノヲノミコト),櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト),八柱神子神(ヤハシラノミコガミ)の3人の神が主人公である。3人の神は,山鉾巡行の後の神幸祭で八坂神社を出て鴨川を渡り,京都の街中にある四条御旅所へやってくる。そして御旅所に1週間滞在し京都の街から災厄を祓うのだ。八坂神社では,素戔嗚尊たちが乗るための3基の金色に輝く神輿が祀られ,宵山では,神に捧げる行事が繰り広げられる。

 果たしてやってきた宵山の日。突き刺さるような日差しが眼に肌に痛い梅雨の晴れ間が,京都上空に広がった。私の生涯最長になるであろう皆既月食は,ほぼ間違いなく祭たけなわとなった街の空を彩るだろう。
 夕刻,私は観光客で溢れかえる四条通りを八坂神社へ向かって東へ歩いた。月は低く,まだ見えない。神社へ着くと,薄暗くなった境内に太鼓や笛や鉦の音が響いていた。すでに石見神楽の定時奉納が始まっているのだ。
 国の無形文化財に指定されている石見神楽には圧倒的な迫力があり,前知識ゼロだった私でさえあっという間に舞台に釘付けとなった。ヒーロー素戔嗚尊が,あらゆる災厄の象徴である八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し,そのクライマックスの絶頂で神楽は終わる。熱演が長引いて,すでに時刻は皆既の始まり22時2分を過ぎていた。
 奉納が終わるとすぐに舞台は潔く片づけられ,散り散りに去って行く人々の流れに逆らいながら,私は空を仰いだ。

八坂神社の皆既

 すると,片づけられていく舞台の屋根に,赤黒い月が昇っていた。


 月は神楽の進行と共に欠けていき,神楽が終わった今,丁度皆既を迎えていたのだ。
 今,境内を歩いている人は大勢いるのに,月を見上げている人は誰もいない。そんな祭の空で,月はただ凛々しく時を告げていた。幾たびも繰り広げられた祇園祭の賑わいを見守り続け,月は2000年の今日もこれからも,祭り提灯に彩られた八坂神社の屋根の上に人知れず君臨し続ける。
 皆既の月は月食特有の赤い色を呈してはいたが,1982年12月の月食を思い出させるほど暗く,本影中心の暗さが想像以上であることを語っていた。それでも八坂神社の煌々とした灯りの下で月の姿を確認できるのだから,1982年12月の月食よりは明るいのだろう。火山の影響が如何に絶大であったかを改めて思った。

 もう来ることがないかもしれない八坂神社の風景とその夜起こった皆既の月を,私は確実に脳裏へ刻みつけ,何度も振り返りながら境内を去った。
 八坂神社の鳥居を出て西へ向かうと,鴨川を越えたところで,入れ違いに八坂神社へ向かう長刀鉾町日和神楽巡行の一行とすれ違った。山鉾巡行の先頭を行くことで知られる長刀鉾町は,宵山の夜が更けると,翌日の山鉾巡行の晴天を祈念するため八坂神社へ囃子を奉納しに行くのだ。
 終わりを知らぬ祭の夜,月はまだまだ赤銅色の光を放っている。

 少しだけ人の数が減ってきた四条通りを更に進むと,他の山鉾町の日和神楽も始まっていた。長刀鉾町を除く山鉾町は,囃子を奏でながら町と四条御旅所を往復し,翌日の晴天を願うのだ。
 お囃子のゆるりとした優雅な音色は,何故か月のある風景によく似合う。月が,古来から日本人に親しまれてきた所以なのかもしれない。私は,お囃子が月食に捧げられているかのような錯覚を憶え,皆既の月の姿と共に祭囃子の音色を憶えておこうと懸命に耳をすませた。

 翌日の山鉾巡行を前にした祭のにぎわい,その上で起こった暗い皆既月食。私は名残惜しさに胸を打たれつつ京都市内を後にしたが,長い長い皆既は,天王山のふもとの自宅へ帰り着いてもまだ終わっていなかった。これが,本影の真ん中を通過する時の長さなのか。
 京都での皆既月食はこれで最後。帰宅後も,私はそう思って何度もベランダへ足を運び,月が戻っていくのを見守った。

 不思議なことに,皆既月食はいつも私の人生の曲がり角でやってくる。京都へ来たばかりだった1986年4月も,やっぱり皆既月食が迎えてくれた。慣れない街での孤独を紛らわすように,私はスケッチの筆を走らせたのだった。
 日が変わり,白々とした丸い満月に戻った月は,私に一つの時代の終わりを告げているようにも思われた。

*****

 2001年1月。
 縁あって,私は故郷熊本へ戻り新世紀を迎えていた。そして,お決まりのように皆既月食が待っていた。
 1月10日の明け方。全ての月日と月の位相が19太陽年を経て同じになるというメトン周期が一巡りし,奇しくも1982年に熊本で最後に見た皆既月食と同じ日付の月食となっていた。しかも似たような時間帯。その上,この月食は熊本を離れて初めて見た1982年12月30日の月食の1サロス周期後の再来でもあった。同じサロスの食は経度で120度ずつ西へずれていくが,1982年12月30日の月食が宵の早いうちに起こったので,今回は明け方の空で見られるのだろう。

 あの暗かった1982年12月30日の月食の1サロス目を,帰ってきた故郷で見ることになるなんて?
 もうスケッチも写真撮影もしようと思わなかったが,私は2001年1月10日に起こる皆既月食に運命的な愛着を感じていた。1982年当時は気づかなかったが,1982年の二つの月食は,私が生まれた年に起こった二つの月食の1メトン周期後にやってきた同じ日付の満月に起こった月食でもあったのだ。平日の明け方というつらい時間帯であったが,私は何としても月食を見たいという想いに掻き立てられた。かの月食の後に私が受けた国公立大学共通一次試験の後身である大学入試センター試験は,今回の月食でもその十日後に控えている。どこかに皆既月食を待ちわびる受験生がいるのかもしれない。
 もしエル・チチョン火山が噴火しなければ,1982年12月30日の月食はどの程度の明るさになったのか,それを確認できる機会でもあった。

 だが1月9日は朝から雨で,夕方になっても降っている。それでも九州地方は夜半から回復に向かうという予報に望みをたくし,仮眠をとって月食を待った。
 そして午前3時半。目覚まし時計に起こされ,祈るような気持ちで外へ出る。
 少しの放射冷却も感じない生暖かい空気に,私は不吉な予告を感じとった。ダメかもしれない。見上げた空は厚い雲で真っ白だった。よく見ると,所々に雲の切れ間があって,背後の星を覗かせている。

 ほんの一瞬だけでもいいから,私に皆既中の月を見せて!
 10分おきに外へ出て天気を確認し月の姿を探し続けたが,雲の切れ間はあっても月の近くを通らない。
 18年前の二つの皆既月食を思い出しながらの祈りも虚しく,皆既が始まる午前4時50分が,そして皆既が終わる午前5時51分が過ぎて1月10日の夜は明けた。苛立ちながら見上げる雲に,1982年の思い出が通り過ぎる。

 結局1982年12月30日の月食に再会する夢はかなわなかった。次のサロスで,この月食は日本の上を通らないだろう。2サロス先の36年後には通るのだろうか? またこの月食が私の上を通るとき,私はどこかの曲がり角に立っているのかもしれない。

窓の絵

 次に訪れる皆既月食は2004年5月5日。この月食は,1986年4月24日の夜に京都で初めて見た月食の再来だ。1986年4月24日の月食は20時頃から欠け始める早い時間帯の月食だったので,このサロスも2回続けて見ることができるのだ。2004年5月5日の月食は,明け方に起こって食の最中に沈んでいき,皆既は西日本でしか見えないという。またしてもメトン周期のいたずらで,5月5日という日付は私が静岡で見た最後の皆既月食,1985年5月5日と同じで懐かしい。大学の屋上でサークルの仲間と共に見た1985年5月5日の月食は,2004年5月5日と同じく明け方の月食でもあった。

 こうして赤銅色の月を見上げた沢山の思い出は,その月を抱く神秘的な光景と重なって,これから暦の周期の再来を迎えていく私の心に花を添えてくれることだろう。自分の歴史の一コマに巡る天体の動きを重ねていけるとは,何と楽しいことだろうか。
 繰り返される天体の暦の中で,今日も時は流れて行くのだ。

(完)

Illustrated by Mitsue Sakaguchi and Ryota Sakaguchi.

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