北観音山(きたかんのんやま) 新町通六角下ル

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 “あとの祭り”の先頭を行く山で,「上り観音山」(のぼりかんのんやま)とも呼ばれる。

 町に残る古文書に,文和2年(1353)創建であることが記されており,応仁の乱の時代から隣町の南観音山と1年おきに交代で山を出していたが,元治の大火の後,1872(明治5)年に復帰。このとき,あとの祭りの先頭を橋弁慶山に代わった。現在は曳山(ひきやま)だが,元々は舁山(かきやま)だった。飾屋根をつけたのは天保4年(1833)のこと。

 山の上には楊柳観音像(ようりゅうかんのんぞう)と韋駄天立像(いだてんりつぞう)を祀り,鉾ではないので真木の代わりに松の木を立てる。
 この松は毎年鳴滝から2本届けられ,隣の南観音山と北観音山の代表がクジを引いて良い方の松を選び取ることになっているもの。松には尾長鳥が留まっているが,尾が短くなったため鳩のように見える。

 破風下の木彫雲鶴は,片岡友輔(ゆうほ)作。

 天水引は,金地錦観音唐草模様(1989:平成元年新調)と雲龍図を隔年に使用。
 金地に刺繍を施した豪華な下水引は,中島来章の下絵による唐人物王侯行列風俗。
 また,二番水引の鳳凰群鳥図,三番水引の四季花の丸は共に山鹿清華による手織錦で,1961(昭和36)年の作品。

 胴懸類は,以前は17〜18世紀の花文インド絨毯を用いていたが,1983(昭和58)年から3年に渡って前懸・後懸・胴懸を新調。現在,前懸は19世紀のメダリオン中東連華文様ペルシア絨毯,胴懸はトルキスタン絨毯,後懸は19世紀の中東連花葉文様ペルシア絨毯。

 見送は,17世紀中国・明朝の日輪鳳凰百子嬉遊図綴錦で,1986(昭和61)年の新調。古見送は,1791(寛政3)年作,絽刺の金地縫詰道釈人物図。

 四隅の房掛金具は祇園守で,1999(平成11)年に新調。欄縁の唐獅子牡丹等錺金具は非常に華麗である。

 山の後ろに差し出している柳の枝は,楊柳観音が薬草を表す柳を持って人の中へ出向き,人々を病苦から救ったという観音懺悔にちなんでおり,観音山の特徴となっている。

 


 

新町通の巡行


北観音山は,御池通であとの祭りの最後尾につき,南観音山に続いて最後に新町へ帰ってくる。

新町御池の辻回しと祝い締め | 宵山と雨の巡行 | 写真集


※関連リンク: 北観音山 (北観音山 六角会のホームページ)



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