洋学校教師館(ジェーンズ邸/日赤記念館)

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 ●開館:午前9時30分〜午後4時30分,月曜日(祝日の場合は翌日)及び年末年始は休み
 ●入館料:大人200円,小中学生100円
 ●駐車場:約10台
 ●場所:水前寺公園のとなり,夏目漱石第三の旧居と敷地を分けて建てられている。

日赤記念館/ジェーンズ邸

 熊本洋学校は,1870(明治3)年に熊本藩に誕生した実学党による革新的県政によって,新しい時代の教育のために開校されました。この学校に外国人教師を招くために建設されたのが洋学校教師館で,長崎から呼ばれた大工の手によって1871年9月に完成しました。開拓時代の米国の建築様式(コロニアル風)を取り入れた熊本初の洋館は,人々の目を引き,見物人が絶えなかったとか。

 洋学校へ教師として招かれたのは,陸軍士官学校を卒業したアメリカ・オハイオ州出身の教育家,L.L.ジェーンズ(1838-1909)。ジェーンズは,1871(明治4)年8月15日に熊本へ着き,1871年9月の開校から1876(明治9)年9月の廃校まで,キリスト教的信念に基づく全人格教育を行いました。またジェーンズが行った日本初の男女共学教育は,後の熊本女学校設立(1887年)への流れを作りました。
 日本語のわからないジェーンズは,英語を知らない生徒たちに英語で授業を行いましたが,その教育は大変厳しいもので,見込みがない者は次々と退校を言い渡されました。しかし,厳しくとも愛情豊かで品性を伴った教育は実を結び,熊本洋学校からは多くの優秀な若者が送り出されました。キリスト教に入信し同志社英学校へ進学した35名は,熊本バンドを結成したことで知られます。

 熊本洋学校廃校後,ジェーンズは1876年10月7日に熊本を去り大阪英語学校で教師を務めましたが,1878(明治11)年に一旦帰国。1893(明治26)年に再び来日し,第三高等中学校,鹿児島高等中学校に勤務した後,1899(明治32)年に帰国しました。帰国後の生活は恵まれず,洋学校時代の教え子からの私信や訪問をとても楽しみにしていたということです。
 1909年3月27日に72歳で亡くなり,遺灰は遺言によってサンフランシスコのライト山に散骨されました。

 ジェーンズ一家が去った後,教師館には新たな運命が待っていました。
 ジェーンズが去って2週間後の1876年10月24日,熊本では,明治政府への一連の士族反乱のきっかけとなった神風連の乱が起こり,その翌年1877(明治10)年の西南戦争まで混乱の時が続きます。
 幸いにも教師館は戦火を逃れ,征討大総督である有栖川宮熾仁(たるひと)親王の宿所とされますが,この有栖川宮の許可により,ここで敵味方関係なく戦傷者を救済する博愛社が設立されました。博愛社は,その10年後に日本赤十字社となりました。

 教師館は,その後,1887(明治20)年,物産館として使用され,1903(明治42)年から2年間は県立高等女学校の仮校舎,そして日露戦争ロシア軍将校の捕虜宿舎,再び物産館を経た後,1932(昭和7)年,日本赤十字社が県から譲り受け,日赤記念館及び日赤熊本県支部事務所として使用しました。日赤が1967(昭和42)年に事務所を新築したため,熊本県・熊本市・日赤で協議した結果,現在地に移築され今に至っています。
 1971(昭和46)年5月,県指定重要文化財に指定され,現在は熊本市教育委員会が管理しています。

 下はジェーンズ氏が使った机と本棚,右はジェーンズ氏の写真。
 商用でなければ,館内の写真撮影は自由です。

ジェーンズが使った机
ジェーンズ

 ジェーンズ邸内の様子(螺旋階段と2階の廊下)。
 廊下の両側に2つずつ部屋があります。

ジェーンズ邸の階段
ジェーンズ邸の色ガラス

 2階にある日赤発祥の部屋。
 暖炉の上の絵には,博愛社設立の日の様子が描かれています。

日赤発祥の部屋
博愛社の記念品



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