1874(明治7)年の金星観測記念碑

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 1874(明治7)年12月9日,105年ぶりに金星の太陽面通過が起こった。
 当時,この現象は太陽系の実尺度を正確に決めるために待ち望まれており,これを観測するため,条件の良かった日本へフランス・アメリカ・メキシコから観測隊がやってきた。そしてフランスとアメリカからの派遣隊は,長崎を観測地として選んだのだった。

 フランス隊(ジャンサン隊長ら6名)が観測地として選んだのは,長崎市西山町の金比羅山(琴平山)で,彼等はここで見事な成功を収めた。
 そこには今も,フランス隊が残した観測台石と,ジャンサン隊長の願いで建立された観測記念碑が残されている。

金比羅山の金星観測碑と説明の立て看
金星観測記念碑

 記念碑には派遣隊員全員の名前などが彫られているが,砂岩で作られているため風化が激しく,既に1916年の段階で読めない字が出てきていたらしい。

 このときの東京と長崎の経度差を求めたアメリカ隊ダビットソンらの観測により,この地は日本初の経緯度原点確定の地としても知られることとなった。

 それから130年。1世紀以上の時を経て,再び日本で金星の太陽面通過を見る機会が巡り来た。2004年6月8日午後,晴天を祈ろう。



1993年に発見された,記念碑の東24m地点にあるフランス隊の観測台。
うっそうと木々に覆われているが,当時は開けていたのだろう。
フランス隊の観測台

経緯度原点確定の地の記念碑と,お稲荷さん“駿河さま”。
フランス隊ジャンサン氏も駿河さまの写真を撮っているが,当時は石造りの社だった。
経緯度原点記念碑と駿河さま

“駿河さま”の前には展望台があり,長崎市が見渡せる。この日(2004/04/24)は,帆船祭が開催されていた。
展望台と展望台からの風景

観測記念碑の案内板を頼りに,暗い山道を登っていく。
金比羅山山頂への道

金比羅山の周辺には星のマンホールがいっぱい!
金比羅山周辺の星のマンホール
紫陽花は,長崎に在住したシーボルトによって Hydrangea otaksa と名付けられた。
シーボルトの愛人だった楠本滝さんにちなんだ名で,
ドイツ人のシーボルトには,“お滝さん”は“おたくさ”に聞こえたのだった。




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