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黒い雲が空を走る。空を覆う。アルバの風に運ばれて。
雨。50日ぶり?
食の始まりは,もうすぐそこに迫っている。
脳裏をよぎるは7年前のハワイ島。曇天の下感じた皆既の暗さ。
私は自分の服の袖を抱きしめる。
今日,私はその時と同じ服を着てここへ来た。
大丈夫。今日こそこの服にコロナを見せる。
脳裏をよぎるは3年前のペルー・モケグア。薄雲の下祈った晴れ間の到来。
大丈夫。あの時よりマシな気がする。
ハワイやペルーでの修行の成果でもないけれど,私は落ち込まなかった。
快晴だった2年前のインド・ロバートガンジを思い出す。今回もきっと晴れる。
遠くカリブ海の向こうまで覆う黒雲を見ても,何故か心配無用と勘が言う。
雨を受けつつ,ヴィア・マルタ・レストランで昼食。
そして再びフィールドへ。
果てしも知れぬアルバの風が,いつしか雲を連れ去ってゆく。
サボテン大地に陽光戻る。もう大丈夫。
やがて最初のひとかけ。
まるで視界を絞り込んでいくように,少しずつ辺りは暗くなる。
夕闇や黄昏とは違う,辺りの色が優しくなるような不思議な暗さ。
私はサングラスを外し,帽子を脱いだ。
もう,南国の日差しも日焼けも気にしなくてよいだろう。
ハワイで曇天の空を見上げたあの日から,私を魅了するのは皆既中の大気の鼓動。
晴れたクリアな大気に広がる異様な暗さ。
刻一刻とそれがやってくるのを肌で感じる。
10分前。視野の確認。
17mmのレンズの中で,大きく伸びたサボテン。
太陽の位置は,画面上方4分の1。
これでよし。私が夢見たサボテン荒野の日蝕風景だ。
サボテン背後のディビディビ・トゥリーが,アルバらしさを引き立ててくれる。
あとはコマンドテープを聞きながらシャッターを切るだけ。
ペルーの砂漠で初めて薄雲を通してコロナを見て以来,
目に焼き付いているのは第2接触直前の,
そう,異世界のような薄暗いあるいは薄明るい数分間。
大自然の営みに感謝しつつ空を見上げ,全身目となり耳となる。
日蝕のせいか,アルバ到着以来一番の穏やかな風が抜けていく。
太陽の脇に木星。等身大の太陽系だ。
コマンドテープに従って,皆既2分前から撮影開始。
太陽の最後の光は,やがて薄青色の深い空に溶け込むように,
ゆっくりと,あまりにも自然に,そしてあまりにも幻想的に,
ダイヤモンドの閃光を放ち始める。
空の色が明るい。
95年のインド日蝕と比べ,空の色が明るい気がした。
その分だけ,ダイヤモンドの輝きが空に自然に溶け込み優しく思える。
その分だけ,ダイヤモンドがコロナの息吹に変わる刹那が滑らかな気がした。
気がつくと,ダイヤモンドは消え去って,水星と木星を従えた真っ黒な月の影。
そして月の影を彩る長く伸びた極小期のコロナ。
コマンドテープに耳を傾けシャッターを切りながら,
茜色の低い空や,遠くで上がる打ち上げ花火の風景を眼に焼き付ける。
地上の風景の美しさと太陽を囲む惑星達の美しさとが,痛いほど調和している。
このカリブの島の日蝕は,最高に贅沢な日蝕かもしれない。
しかも,3分28秒の何と長いことよ。
撮影計画無しに手動で露出を変えながら一通りシャッターを切り終わり,
残った時間で双眼鏡を覗いたり,肉眼で周囲を観察する暇さえ作れるのだ。
それでも皆既中は無我夢中で,毎度ながら細かい記憶は残っていない。
コマンドテープが時を告げ,
私は,世界が第3接触前に漏れるピンク色の光に包まれる瞬間を待つ。
この光が最高に好き。
ペルー・モケグア日蝕の後,私に1時間も感涙を抑える苦労を強いたのは,
このピンクの光だった。
インドではあまり分からなかったけれど,また見られるだろうか。
来た時と同様に,去りゆく影は深い薄青色の空に自然に溶けていく。
ゆっくりと,私が切望した光が月の向こうからこぼれ落ちる。
あぁ。
去りゆく蝕への惜別を込めて,再びコマンドテープに合わせてシャッターを切る。
そして2分。無計画だった割には丁度の予定でフィルムを撮りきった。
アルバの日蝕は去ってしまった。
そう思って立ち上がると,連れ合いに本影錐が見えていると教えられる。
振り返ると,背後の空に暗い部分が残っているのを認めた。
さようなら,月の影。
急速に増光していく太陽の下に佇み,私たちは日蝕の影を見送った。
またサングラスをかけ帽子をかぶる。
影が消えると,あちらこちらで挙がっていた喜びの声が突然耳に入ってきた。
よかったなぁ,と改めて思う。
一緒に来ていた友人達や偶然会った友人達の顔を見に行き,喜びを分かち合う。
同じ場所で同じ瞬間に同じ天文現象を見ていた。
ただそれだけの事実がこんなに嬉しいのは,日蝕ならではのことだと思う。
すっかり光を取り戻した太陽を見上げ,私は再び自分の服の袖を抱きしめた。
あれが,ハワイで見るはずだった皆既日蝕なんだよ。
お気に入りの観測服にコロナの思い出を染み込ませ,過去を清算。
アルバの風は心に新たな風を送り込み,次の日蝕へと発たせてくれたのだった。