5月に入ると日没がぐんと遅くなり,星空探訪は21時頃まで待たなければなりません。20時に南中を迎える星座は,おおぐま座・コップ座・かみのけ座・からす座と,南天のはえ座・みなみじゅうじ座ですが,20時の空は,たぶん未だ1等星がやっと。春の星座は,寒い盛りに暁の地平線から顔を出し,やっと見頃になった頃には日が長くなって見てもらえないという,なかなか寂しい運命を背負っているのです。ですから,たまに訪れる空が澄んだ日には,ぜひとも夜更かしして春の星座たちを結んでみてください。
先月のうみへび座に引き続き,今月も春の代表的星座でありながら,意外と注目されにくい星座,コップ座をご紹介します。
コップ座は一番明るいδ星が3.6等という暗く目立たない小星座ですが,成立は紀元前で,アラートスの『ファイノメナ』(B.C.300頃)に登場し,当然ながらプトレマイオス(トレミー)の48星座の一つです。古代エジプトでは,最高位に達したナイル川の水が,この星座が昇ってくる頃引き始めるため,その印として重んじられていました。アラビアでは“まぐさ桶”に見られたり,うみへび座の星たちと共に“縛られたラクダ”に見られたりしたそうです。
星座絵を見慣れている方はご存じだと思いますが,コップ座が象っているのは私たちが水を飲むのに使うコップではなく,二つの取っ手と脚がついたクラーテルと呼ばれる混酒器。古代ギリシャで水と酒を混ぜるのに使われていたもので,優勝カップの杯のような形をしています。そう思って星を結ぶと,コップ座が実によくできた星座であることがわかりますね。
コップ座になったクラーテルの持ち主については,酒とブドウの神ディオニュソス(ローマ神話のバッカス),太陽と音楽の神アポロン,コルキスの王女で魔女のメーデアなど,ほかにも様々な人物が伝えられていて定説はなさそうです。この中から幾つかの話をご紹介しましょう。
杯といったら,まず思い浮かぶのが酒の神ディオニュソスではないでしょうか。
ギリシアでは,コップ座のことを“ディオニュソスの鉢”と呼び,ディオニュソスがアテネに滞在した時,丁重なもてなしをしたイカリオス王へのお礼として贈った杯に見立てています。イカリオスは,早速ディオニュソスに伝授された美酒を造って農民たちに振る舞いますが,毒と勘違いした彼らに殺されてしまいます。イカリオスが飼っていた犬のメーラは,悲しみのあまり王の墓の前で飢え死にし,こいぬ座,又は おおいぬ座になったと言われます。
また,魔女メーデアにまつわる神話は,アルゴ船の冒険に関連しています。
アルゴ船の旅は,黒海の岸にあるコルキスの国で宝になっていた金毛の羊の皮を取り戻すことが目的でしたが,コルキスの王女メーデアはアルゴ船を率いるヤーソンを助け,見張り番の竜を魔法で眠らせます。無事に旅の目的を達成したヤーソンは,メーデアを妻としてギリシアへ連れ帰りますが,やがて大きな鉢で薬草の汁を混ぜる魔女のメーデアが恐ろしくなり追い出します。その後コリントスの王女を妻に迎えたヤーソンに腹を立てたメーデアは,王女を殺して飛び去ってしまい,メーデアが薬草を混ぜた鉢はコップ座になったということです。
別の神話では,ヘルクレスの十二功業に関係して出てきます。
十番目の仕事で,西の果てに住む怪物ゲリュオンが飼う紅の牛を生け捕りする旅をしていたヘルクレスは,太陽のあまりの暑さに腹を立て,太陽に向かって弓を構えます。このとき太陽神ヘリオスが,ヘルクレスをなだめて与えた黄金の杯がコップ座だというもの。古代ギリシアの世界観では,太陽は毎晩西の果てジブラルタル海峡あたりで杯の舟に乗り,西から東へと旅をしながら疲れを癒し,翌朝の空の旅に備えたと考えられていたのです。一方ヘルクレスは,この杯に乗って海を渡り,無事ゲリュオンが住む紅の島へ着くことができました。ジブラルタル海峡を挟んだ二つの岬,ジブラルタルのフェルセンとセウタのジャバル・ムーサは,ヘルクレスが投げ飛ばした岩だという伝説に従って“ヘルクレスの柱”と呼ばれます。
キリスト教に関係する呼び方もいくつか知られ,“カナの石の水瓶”“キリストの受難の杯”“ノアのワイン杯”などがあります。
“カナの石の水瓶”は,ある結婚式でワインが足りず,イエスに従って水瓶に水を入れると上等のワインに変わったという“カナの婚礼”として知られる話に基づきます。また,“キリストの受難の杯”は,十字架に処せられる直前の“ゲッセマネの祈り”と呼ばれる場面での「父よ,できることなら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(財団法人日本聖書教会・新共同訳)というイエスの言葉からきたもの。“ノアの葡萄酒杯”は,洪水後農夫になったノアが,ぶどう畑を作り,葡萄酒を飲んで酔っぱらった話からついたものです。
コップ座で固有名が知られているのは,4.1等のα星アルケス(Alkes)だけ。アラビア語で“カップ”を意味するアル・カスが語源で,星座全体を表す名前がα星の固有名になった,小星座にありがちな命名です。ラテン語では“コップ座の基部”という,星座の中での位置を表す名前で呼ばれていました。
β星(4.5等)は,先月ご紹介しましたように うみへび座の一部とされ,うみへび座κなどと共にアル・シャラーシフ(肋骨)と呼ばれたことがありました。