9.順風の時に帆を上げよ

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 数日後,『ミラ観測ハンドブック』が送られてきた。
 それは,私のミラへのパスポート。まだまだ不安な思いは渦巻いていたが,ジャコビニ群の夜に始まったミラ・ブルーのおかげで,私は自分に“ミラを観ない”という選択肢こそ無かったのだと気がついていた。どうしても,どうしても,私は自力でミラを探し出し,観てみなくてはならなかった。
 その決意が形になったものが,この送られてきた資料たち。私はミラ・キャンペーンの資料を目前に,ようやく亮介にミラを見る決意を伝えた。

 私の手元には,数年前,やはり『天界』の紹介記事を見て送ってもらった『はじめての変光星』なる小冊子があり,当然それにもミラは紹介されていたが,『ミラ観測ハンドブック』の方は,明らかに,「変光星観測を始めたい」という人はもとより「ちょっと変光星でも見てみるか?」程度の初心者までを視野に入れており,もっと大まかな星図からミラを探せるよう工夫されていた。肉眼観測でもよいという言葉通り,肉眼観測までを想定した,くじら座全体を見渡せる変光星図つきなのだ。
雷鳥  『ミラ観測ハンドブック』は,難しいはずのミラの変光原理をやさしく紹介し,最近の光度曲線を加えて,ミラを見ようという気持ちを引き立てる。そして,肉眼で見えないってことでも立派な観測なのだと,初心者に観測が難しくないことをアピールしている。
 確かにそうだ。そして,どんな観測でも,そうやって事実を報告することにより初めて観測結果として認められる。だが,わかっていても,肉眼で見えなかったという素人観測の結果を報告しようとまでは,なかなか思えないものだ。ベテラン観測者にそう言ってもらえると,安心して,じゃあ見てみようかという気になってくる。

 確かに少し,私はミラに近づいているようだった。確かに少し,ミラへ向って風が吹き始めている。
 順風の時に帆を上げよ。
 私は西洋の諺を思い出した。これに倣って帆を上げよう。今,この1998年秋こそが,ミラへ向かう私の船を漕ぎ出す時だ。
 奇しくもその時私が読んでいた本は,『ミラ観測ガイドブック』の参考文献に名を連ねている『星・物語 100億光年のかなたから』。赤いシリウスの話を調べようと思って読み始めた本だったが,急いでミラの話のところまで読み進めてみよう。普段なかなか読書の時間を作れない私だったが,丁度その週,北陸地方への日帰り出張が入っていた。行き来の列車の中で,読む時間をつくれるはずだ。
 かくて私は,本を抱えて出張列車に乗り込んだ。

星物語

 読み進めてみると,この本は,変光星の話にかなりのページを割いている。おそらく,星の一生を語ろうと思えば変光星の話でいっぱいになってしまうのは,必然なのだろう。
 誕生にしても死にしても,とかく物理学のセンスに欠ける者にとって恒星の話は難しい。だが,同じ話を聞くにしても,一般論を聞くより,ある特定の天体に関して詳しくエピソードを交えながら語られる方が,ずっと理解が容易になってくる。この本は,そういう意味で,実に成功していた。
 難しい筈の変光星のからくりでさえも,次々と絵や図で示しながら軽快な口調で語られていく。そう,それぞれの天体には,それぞれの事情がある。それらの事情が,その星の特徴を観察していくことにより,眼視観測しか手だてのなかった時代から,少しずつ,優秀な観測者達の手によって解きあかされていく。その様の記述は,まさに圧巻だと言っていい。
 不思議なる未知の星々の生き様を,今,自分の目でとらえられる。それがまさしく変光星だった。100億年もの寿命を持った恒星にとって,人間の1日や1週間なんて,ほんの一瞬の瞬きのようなものだろう。でも,その間でさえも星は光度を変えて,私達にメッセージを伝える。その様子を,もしその気になりさえすれば,単なるアマチュアの私でも観測によって目の当たりに出来るのだ。
 ミラの章にたどり着く前に,私はすっかり変光星の世界に魅了されていた。

 「とにかく,知識を通して見た星空は別世界なのだ。何も知らずに見た星空の何倍も美しい。」
 突然,ある一文が私の頭の中にこだまする。それは,高校二年生だった私が地学部の部誌に書いたエッセイの一文で,当時は自分の気持ちを素直に表しよく書けたつもりであったが,後の自分には,何を尖って生意気なこと書いているのかとすっかり嫌われ,読み返されもしなかった文章だった。でも,今,痛いほどそれを感じた。
 何故,ミラを見るのにその気持ちを忘れていたのだろう!
 今,何が起こって,この星が減光しているのか,あるいは増光しているのか。それを思い描いたら,どんな変光星もわくわくせずに見ることはできない筈だった。高校生の私なら,きっとそれを知っていたのに。

 ミラのことを,もっと知ろう。そしてミラの変化を見てみよう。
 ミラの章に読み進んだ時,私の心はすでにその気持ちでいっぱいだった。
 ミラへ向かう風は,ますます強く吹き始めていた。私のミラへの船は,もう引き返せないところまで漕ぎ出していた。


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