2ヶ月が経って

 最初の1ヶ月は毎日気を確かに生活するだけでやっとだった。
 その後,忘れたくない最期の日のことや見送った日のこと,それに続く7月のこと等々を思い返して記録を始めた。

 だが,1ヶ月前の気持ちを正確に思い出すのは難しい。
 その時々でその時にしか分からない心のありようがあり,時間が過ぎればその機微は心の深淵に沈み込んで手が届かなくなる。
 今日の私のことは今日の私にしかわからないのだ。

 なので,今日は今のことを書いておく。


 ベリーがいないこと,二度とベリーに会えないことを,私はまだ理解したくない。
 それを思い出すと,未だ「信じられない!」と思って泣き崩れそうになってしまう。だってだってだって,逝く直前まであんなに元気で綺麗でやんちゃに楽しく暮らしていたのに,突然何が起こったの。何だったの…。

 ベリーが生きていたときにそうだったように,毎日,一日中ことあるごとにベリーの名前を呼んで話しかけている。ベリーを思い出していない瞬間などないのではないかと思う。
 姿は見えなくても,ベリーは私と一緒にいるのだ。見えなくても話しかければ聞いていてくれる,そう思って過ごしている。

 この状態がこれからもずっと続いていくのではないかという気がしている。

(2022-05-12)
(2022-05-12)

 ベリーがいなくなって家の中が汚れなくなった。ベリーの毛やベリーのフンやベリーの粉で家が汚れないことがとても寂しい。家の中をフワフワ漂うベリーのダウンが見えないのが寂しい。
 私が何のために一日中音楽をかけていたかといえば,ベリーが小さくピヨピヨと合いの手を入れながら一緒に音楽を聞いてくれるからだった。だから一緒に聞いてくれるベリーがいないのに音楽を聞くのが寂しくて辛い。
 一緒に楽しんでくれるベリーがいないから,この2ヶ月,電子ピアノも電子バイオリンも触る気持ちになれずにいる。

 ベリーがいなくなって数日した頃からだったと思う。
 頭の中でずっと,種とも子さんの「It Must Be Love」という楽曲が流れている。

 なるほど,私の毎日は全部ベリーへの愛のせいだったのだ。それが分かった。
 ご飯を食べるのも眠るのも洗濯するのも買い物に行くのもレジで並ぶのもトイレに行くのも,何もかもベリーへの愛のせいだったらしい。
 全てから色が消えた。待っているベリーがいない日常への色の付け方がわからない。


 悲しみと向き合うとき,誰かに聞いて欲しい人と,放っておいて欲しい人といるようだ。
 私はどちらだろうか。

 考えるだけで悲しいし,ベリーのことを誰かに話そうとすると苦しくて悲しくてそれだけで辛い。だから基本的には放っておいてほしいと思う。心配してもらっているのは分かるけれど,「落ち着いた?」みないなことを言われたら,落ち着くわけないじゃないか!放っておいて!と思ってしまう。
 でも,鳥がどれほど心のより所になる存在かを知っている方とは話ができる気がしている。

 ベリーは私が私で或ることの一部だったし,これからもそうなのだと思う。

(2022-02-08)
(2022-02-08)

 ベリーを失ってこの方,ちょっと感じた違和感のこと。

 鳥に限らず,亡くなったペットのことを「星になった」と表現する方が多いのは何故なのだろう。私は「違う!ベリーは星なんかになってない!」と思ってしまう。宇宙の最初からあった水素やヘリウム,ベリリウムやリチウムなどを除いた重たい元素はみんな星から生まれたし,太陽が終焉を迎える50億年後には太陽系の構成材料はみんな宇宙へ散らばり,やがてそれらが集まって新たな星になる日もやって来るかもしれない。けれど,亡くなったことを「お星様になった」と言われるのにはめちゃ違和感を感じる。
 この表現,人間にも使う? 使うこともあるのかもしれないけれど,ほぼ聞かない気がするのだが,どうなのだろう。だとしたら,何故ペットには頻繁に使われるのだろう。

 「お星様になる」ほどではないけれど,「虹の橋を渡る」という表現も何だか馴染めない。人間だと「三途の川を渡る」と表現するところが,対象が人間以外の動物だとこちらの表現が多用されるようになるような印象だ。単純に天国へ渡っていくイメージだろうか。
 虹は,旧約聖書のノアの箱舟の物語では,神様からの契約の贈り物,神の愛の印ということになっている。この世から旅立つ命に与えられた神様からの祝福と考えれば,少なくとも「お星様になった」よりは納得しやすい気もする。

 色々と理屈っぽくごちゃごちゃと考えてしまう。
 この面倒くさい私にベリーはほんと優しくしてくれたと思う。

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ベリーがいた場所

 ベリーが逝って2週間が経とうとしていた。

辛くてなかなか片付けられないケージ(2022-07-14 13:49)
辛くてなかなか片付けられないケージ(2022-07-14 13:49)

 空になったケージを見ながら私が毎日していたことは,19年近くの間に撮りためたベリーの写真に「berry」のタグをつけることだった。

 毎日毎日,時間さえあればパソコンに向かい,NASに保存された2003年からの写真を何度も見返し,ベリーが写っている写真や動画,ベリーに関係がある写真を探しては悉くタグをつけ,その頃のベリーと私達の生活を思い出し懐かしんでいた。そういった作業に没頭していれば,二度と再びベリーと会えないという事実を考えないで済んだ。

 タグをつけておけば,ベリーのアルバムが完成する。
 是非ともやっておかねばならない作業だ。そして,ベリーがいない今,その作業を続けている限りベリーと一緒の時間が続いているような安心感もあった。

 私が毎日ベリーの写真に明け暮れている間,夫はベリーの動画の抽出を行っていた。
 ケージの上に設置していたベリー用監視カメラの中に奇跡的に残っていた,1年半くらい前の日常動画のサルベージ作業だった。

 監視カメラはもともと留守中に外出先からベリーの様子を確認するために設けたもの。録画はしていなかった。
 だが,試験的に録画した動画が少し残っていた。古くて壊れかかったファイルだった上に,ファイルは1分刻みに分かれており,確認作業はかなり根気を要するものだった。だが,朝起きてから夜寝るまでのベリーの定点観測。ベリーとの何気ない日常が記された貴重な動画だ。
 私達はベリーとの日常の思い出を可能な限り救い出したかったのだった。

 日常というものは,失った後に初めて真価を知るものだ。
 その最中にいるときは雑事に紛れて流れてしまうし,普通のこと過ぎてわざわざ撮ったりしない。
 それが自動的に記録されていたのだ。何てありがたいことだろう。


 そうしてまた巡ってきた金曜日。
 ベリーが逝って2週間。ほぼ半月が過ぎた。
 分かっている。そろそろ,このケージを何とかしなければならないのだ。

 さまざまな思い出の角度でケージを眺める。

ソファーから見たケージ(2022-07-15 05:53)
ソファーから見たケージ(2022-07-15 05:53)

 ソファーから。

 私がソファーで読書を始めると,ベリーは出てきて私のすぐ横のソファーの袖で寛ぎ始めたものだった。ベリーがそばに来てくれるのが嬉しくて,私はソファーで読書をしていたのだった。


 ケージの扉を開いてみる。

 毎日の掃除の時,この状態になると,ベリーは開いた扉によじ登った。最初はなかなか上手にできなかったが,そのうちさっさとよじ登れるようになり,扉の上からケージの上に出る過程を楽しんでいた。ほぼ趣味といった感じだった。

 ケージの扉を開けて,私が小松菜を洗ったり水を交換するために小松菜を入れた容器を出して台所で作業をしている間に,ベリーは扉の上によじ登る。
 私が台所の作業を終えてケージへ戻る頃には,ベリーは扉の上かケージの上で満足そうにしているのだった。

 そんなベリーに毎度私は声をかけた。
 「ベリーまた趣味やってるの?」
  ベリーは得意げな顔をして,ちょっと翼を広げてぐるぐる回る。

 今も,この扉の上に,あの時のベリーの満足そうな顔が見えるようだ。

掃除の時ベリーはよく扉に上った(2022-07-16 09:57)
掃除の時ベリーはよく扉に上った(2022-07-16 09:57)

 このケージは2番目のケージだった。
 ベリーを迎えた時に買ったケージを,2010年にこれに買い換えた。

 ベリーはケージを買い換えても,引越前後にケージのサイズを変えても,全く気にせずに同じように過ごしてくれる子で,本当に助かったものだった。

 親馬鹿なので,ベリーはとても賢く,ケージは変わってもケージである事に変わりはなく,自分の居場所であると理解してくれていたのだと思っている。

ケージの買い換え(2010-10-31)
ケージの買い換え(2010-10-31)
(2021-12-12)
(2021-12-12)
(2021-01-17)
(2021-01-17)
(2021-02-15)
(2021-02-15)

 ベリーはケージを自分のテリトリー(部屋)の中のコアだと認識していたのだと思う。
 いつもケージの周辺で寛いでいたし,外に出ていても最後には自らケージに帰って行っていた。ケージこそがベリーの居場所だった。

 あぁしかし,そのベリーの最愛の居場所を処分しなければならないだろう。
 そろそろ…この週末くらいには。

 ずっと考えないように他の作業に逃げてきたが,そろそろ逃げてばかりもいられない。客観的に考えて,そろそろケージとお別れすべき時だと思う。
 ベリーはどう頑張っても戻ってきてくれないのだから。
 それは自然の摂理で確定していることだから…。

 そんな気持ちの中,7月16日〜18日の三連休を迎えようとしていた。

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2回目の日曜日

 2022年7月10日(日)。
 ベリーがいない2回目の日曜日。
 少しずつ少しずつ,遺品の整理を続ける。

 ケージを棚から下ろし,ケージの下に保温用に敷いていたシートを取り出した。

 ケージサイズに作ったフワフワシートを,更に保温性が高そうなフワフワのカバーに包んでケージの下に敷いていた。
 これらは使い道がないので廃棄。
 今までありがとう。ベリーを温かくしてくれてありがとう。

 ベリーは成鳥になってから14歳で肺を患うまで,真冬もヒーター無しで過ごしていた。
 ずっとマンション住まいなので底冷えすることはないし,部屋はだいたい真冬でも17〜18℃は保たれている。とても寒い日はエアコンで調整するものの,それ以外は弱い子にならないように室温の寒暖差の中で過ごさせた。

 肺を患って以降は,年もとってきたしということで,年中ヒーターとサーモスタットで30℃前後をキープし,役に立っていたかどうかは疑問だけど,ケージの下にこういった保温性の高い素材を敷いて冷えないように対策していたのだった。

ケージの下に敷いていた保温用マット(2022-07-10 14:29)
ケージの下に敷いていた保温用マット(2022-07-10 14:29)

 そして,これはベリーを迎えた時に作った止まり木。
 幼鳥だった最初の頃は,これに乗って体重を量ったり,ここで大人しく遊んだりしたものだった。しかし成鳥になってからはすっかり使わなくなっていた。

 これも使いようがない。
 金具と木にばらし,素材に戻した。

ベリーお迎えの時に作った止まり木(2022-07-10 14:29)
ベリーお迎えの時に作った止まり木(2022-07-10 14:29)
(2003-11-17)
止まり木に留まる幼鳥時代のベリー(2003-11-17)
止まり木に留まる幼鳥時代のベリー(2003-11-22)
止まり木に留まる幼鳥時代のベリー(2003-11-22)

 この日できたのはここまで。
 ケージはもう一度,ベリーがいた棚の上に戻した。

ベリーが逝って10日経ったケージ(2022-07-11 07:19)
ベリーが逝って10日経ったケージ(2022-07-11 07:19)

 わかっている。
 このケージを何とかしなければならないのだ。

 いつまでも空のケージをここに置いておくのは良くないことだろう。
 わかっているのだ…。

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