BBS (2012-06~)

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BBS (2012-06~)」への10件のフィードバック

  1. じゅのさん、こんにちは。デザイン変えられてから、初めてのコメントでしょうか。とてもすっきりとしていて素敵です! そして、じゅのさんの写真たちが以前よりも大きく見られて、一人感動していました(笑)。

    「ティータイム」この上なく好きです。大人な雰囲気の午後・お洒落な感じと、心に秘めた切なさが、たったの四行でこんなに深く表現できるなんて……。どうしたらこんな風に美しい言葉を選び抜くことができるのかしら、って思います。
    「I’m here.」も写真と言葉とがしっとりとマッチしていて、私の今の心情をそのまま映して下さっているようで、涙が溢れて止まらなかったです。会ったことがないけれど、じゅのさんは本当に素敵な方だなぁと、このブログを通していつも感じています。
    お人形さんたちの目線も好きでした。その瞳は何を見てきたのかしら。優しさと悲しさと何もかもを見据えているような瞳、じゅのさんが時間をかけて魂を吹き込んできた瞳を、強く感じました。きっとじゅのさんは、じゅのさんにしか込められないもの、じゅのさんにしか描けない世界を、このブログに結晶のように散りばめて封じているのですね(^^)。
    じゅのさんの美しい感性に触れることができて、本当に嬉しいです。優しくて温かくて、それでいて切ないこのブログ、そしてじゅのさんが大好きです。じゅのさんのファンでいて良かった! これからも大好きですよ。

    •  鞠乃さん、こんにちは。いつもありがとうございます。
       システムの都合で必然的にデザインを変えなければならなくなったので、思いっきりシンプルにしました。2カラムにしたので、写真は大きくなりましたね。半ば写真を載せるブログでもあるのでこの方が良かったなと自分でも思っていたのですが、鞠乃さんに楽しんでいただけて幸いです。

       「ティータイム」も「I’m here」も、言葉と写真が頭の中で自然につながってできたエントリーでした。
       そんなに褒めて頂くと照れますが、実のところ私は語彙がそんなに豊富でもないし、言葉を選び抜いているというほどでもなく、ただできるだけ短く、説明臭くならないように、と思って書いています。気をつけて短くしないと、他人から見たらどうでもよさそうな細かなことをダラダラ書いてしまって、読むのもめんどくさい作品ができそうですから(^^;。

       視線、これはお人形を撮るときの命だと思います。鞠乃さんはいつも私が大切に表現しているものを言葉と写真から確実に受け取って下さるので、何だかとても救われた気持ちになります。
       言葉も写真も感性の世界だから、表現したいものをキッチリ共有できる人と出会えるってなかなか難しいことで、だからこそとても貴重ですね。私も鞠乃さんの言葉や写真を心に刻み込んでいるので、街を歩いているときや何かを撮ろうとしているとき、ふと思い出したりします。

       更新はゆっくりですが、これからもどうぞ宜しくお願いします^^
       このシステムになってからコメントを知らせるメールが届かないもので、お返事など遅くなることが多くなりそうですが、ごめんなさいね。

  2.  じゅのさん、お久し振りです。気がつけば十月も半ばを過ぎ、すっかり寒くなってしまいましたね。
     夏が恋しい……日々ですが、この季節の楽しみの一つは「金木犀」です。人によってはトイレの芳香剤っぽくて嫌、って言う方いますけど、私はあの透き通った甘い香り、大好きです。香りはよく、眠った記憶を呼び覚ますとかって言われますけれど、本当だなぁと思います。金木犀の香りは、なぜかすごく昔の懐かしい気持ちになります。
     オレンジの小さな花も、哀愁を感じさせますよね。じゅのさんの雨に濡れた金木犀、読んだ瞬間に心の鏡に反射しました。寂しげなのに、包みこむような優しさも併せ持って……、それでもやっぱり寂しげで。どうしてかしら。

     最近のじゅのさんの言葉や写真からは、前とはまた少し違ったメッセージを感じる気がします。繊細さの中に隠されている深い想い。繊細なのだけど、とても大胆で。
     自分が変われないから変わらないものを求めているのか、変わらない自分が嫌で周りにも変わらないでいて欲しいのか、今の自分が好きだからいつまでも変わらずにそのままであって欲しいのか、よくわからない私。
     それでもじゅのさんのメッセージを読むたび、見るたびに、いつも新しい何かを心に積み重ねているような。切ないだけじゃなくて強い情熱もあって。悲しいだけじゃなくて愛や優しさもあって。
     私は、本当にそういうものを求めているのだろうな。言葉にするの、難しいのですけど。私はここを訪れるたびに、毎回じゅのさんに会いにいくような想いです。じゅのさんと私、多分全く違った人間なのでしょうけど、でも、もしじゅのさんに会えたら何だかすごく懐かしい気持ちになるのではないかな、と時々思います。
     おこがましいのですけどね(^^;。ずっとじゅのさんのことを知っていたような、じゅのさんのことを求めていたような、そんな気持ちになれる気がする。それは私がよく知っていて、全く知らない未知の感情です。

    •  鞠乃さん、こんにちは。
       何かすっかり遅くなってしまって半年後のお返事になってしまってごめんなさい。メッセージをいただいたのは金木犀が香る頃だったのに、既に冬が過ぎ、春。
       春が、今年は大急ぎでやってきた気がします。鞠乃さんは夏の人…というイメージなのですが、私は冬の人で、この季節になると去って行く冬が名残惜しくて空を見上げます。

       金木犀の香りは過去の同じ香りを感じた季節の出来事を思い出させてくれると思いますし、春のスイセンの香りも、桜の景色も、そうだなと思います。こうした経験は四季の風景が美しい国で生まれ育った喜びなのかもしれません。だから切なくて懐かしいのでしょうね。年を重ねて過ごした年月が増え、二度と会えない人が増えてゆくにつれ、益々深くそれを感じるようになった気がします。

       鞠乃さんがいつも私の言葉と写真からメッセージを受け取って下さることを、とてもありがたく、そして嬉しく思います。鞠乃さんとはお会いしたこともないし、実のところものすごく違った種類の人生を生きている違った人間なのかもしれませんが、それでも鞠乃さんの言葉を読むと、私はいつも、過去の自分を思い出します。鞠乃さんはとてもお若いし、その若い痛みを伴った感性がつむぐ言葉や映像は、私が遠い遠い日々に抱いていたものを、感情を、こころを、どこか思い出させるものがある。そしてそれを、今の私は、もしかしたら意図的に失ってしまっている。

       良くも悪くも人は日々変化しつづけ、同じではいられない。同じでありたかったり、それを望んだりしても、時間はそれを許さない。嬉しくても辛くてもそれが人生で、それが言葉を紡がせ写真を撮らせるのだなぁと思います。悲しさも寂しさも辛さも,喜びや楽しさを知らない心には理解できないことで、両方持っているからその狭間で私たちは振り子のようにもがいているのかもしれませんね。

       鞠乃さんの新しい季節の言葉を楽しみにしています。

  3.  じゅのさん、お久しぶりです。とは言っても、度々ここへ訪問させていただいているので、気分的には全然そんなことありません(^^;。
     海かしら、爽やかなブルーの優しい写真を見て思わずコメントを、と思えば、じゅのさんからのお返事をいただけていてとてもハッピーでした。水色と白の、水彩画みたいに淡い色合いに癒されます。

     変わりたくない、変わりたくないと、いつも心のどこかで思いながら生きているけれど、確実に変わっていってしまっている自分に、最近気づいて。
     あの頃よりいい写真が撮れるようになったわけでもないし、いい言葉を書けるようになったわけでもないけれど、あの頃の写真も言葉も、今の私にはもう創り出せない。そして、あの頃の感情も。日々、ちょっとずつ感じ方も考え方も、思いとは裏腹に変化していって。だから、じゅのさんの写真も言葉にも、見るたびに微妙に違った感情を持ちます。
     昨日はあんなに切なく思えたのに、今日は限りなく優しさを秘めていることに気づいたり。綺麗だな、と思っていたのが、ふと気づくと悲しみに変わっていたり。
     けれど、あの頃の方が良かったのか、と聞かれたらそうでもないなって思います。昨日の感情が、似ているようで今日はもう別のものに変わってしまったように、多分、今日の感情を明日へ引き継ぐことはできないのでしょうね。
     今日の想い、今日の感情。言葉にしてみて、初めて気づいたり。

     じゅのさんは冬の人……。秋の人のイメージも強かったです。オレンジと茜色の混ざり合う夕焼けの中を、真っ白なワンピースを着て薄絹の帽子を被って、背中を向けてそっと立っているような。どこか遠い場所を見つめて。勝手な想像でした(^^;。
     冬の透明感も真っ白な感じも、それになぜか去ってゆくのが名残惜しい想いも持ちながらも、やっぱり私は夏が恋しいのかな。思えば、春は一番苦手な季節なのですが(理由はわかりません)、上に書いたように、日々変化してゆく感情に気づいてしまってから、少しだけ春への苦手意識が別のものに変わった気がします。
     おそらく、来年の春を迎えるこの時期には、また全く別の感情を抱いているのでしょう。あの頃を一番とは感じないけれど、今が一番好きというわけでもない。変わりたいのに変わりたくない。変わりたくないのに変わってしまう。
     いっそのこと、想いが帰る場所を見つけてくれたらいいのに。想いがいつまでも私の中で居続けるから苦しくて悲しい。それでも、想いを手放したくないと一番願っているのは、言うまでもなく私自身で。生きてるって面倒だな。同時に、美しいものに触れた時、愛おしさで溢れてくるのに。

     なんて長々と……いつも一方的でごめんなさい。メッセージよりもメールの方がいいのかしら。

    •  鞠乃さん、こんな滅多に更新しないブログを度々訪問していただいて、本当にありがとうございます。私の方も鞠乃さんをいつも訪問させていただいているので、お久しぶりなのですが、いつもお会いしているような気もします。ネットではリアル以上に気配や雰囲気で微妙に繋がっていくものですね。

       私は海には縁が無いので海の写真は滅多にないのですが、夏の海は綺麗ですね。
       鞠乃さんに夏のような綺麗な季節は嫌いになれないと言われて以来、私も暑い中夏の美しさを愛せるような気がして昨夏から過ごしています。
       鞠乃さんが私に秋の人のイメージを持っていらっしゃったのは、それはそれで確かなイメージなのだと思います。霜月の夕日の輝きが私の一番愛する時間ですから。冬の人、正確にはたぶん冬を待つ人、だから十一月なのだと思います。白いワンピースって持っていないけれど、実はとても好きですし。よく遊んでいるアバターのゲームでは白いワンピースを着ること多いです。

       でもあれこれ言っても、どの季節もその季節なりの美しさと哀しさがあって、その季節を迎えてみると愛おしいような気がします。
       今、東京は満開の桜が散り始めています。冬を過ごしていた頃は春を疎ましく思い、春なんて来なければいいのにと思っていたのに、その様子を見ると桜の花咲くこの季節はやはり唯一無二の美しさがあり悲哀があり去りゆくのがたまらなく残念に思われます。
       こうして移りゆく季節の中で、私たちもやっぱり同じ日々を繰り返しているようで変わっていくのでしょうね。変わることは昨日への裏切りのようで怖い、でも今日より昨日の方がよかったわけでもない。変われば苦しくないのかもしれない。でも苦しくても、苦しさは愛おしいのかもしれない。戻ることも叶わない故、苦しみから逃れられない故,そうやって日々逡巡しながら想いの行き場を探ることになるのでしょう。鞠乃さんが仰っていること、私にもよくわかる気がします。

       いつも日常のブログが精一杯で、ここはなかなか更新できず、こちらこそお返事が大変遅くてごめんなさいね。ですが、どうぞブログのコメントは、遠慮無くここへ書いて下さいね。そのうちきっとお返事しますので。

  4.  じゅのさん、こんばんは。

     じゅのさんのちょっと切なくて悲しい言葉も大好きですが、春のさらさらとしたやさしい言葉も素敵です。春に吹く風の暖かさと、少しだけ残る肌寒さがわかるみたい。
     長い冬眠から目覚めた、春のまちに住み着く風の妖精になった気分だな。
     優しいから、悲しいのにね。

    • 鞠乃さん
       いつも丁寧に言葉を辿って下さってありがとうございます。
       優しいから、悲しいんですよね。まさに。
       優しさは強い心を溶かしてしまうから、強さで覆っていた切なさや哀しさが露出させる。
       春に吹く風も人の心も、たくさんの色を帯びて玉虫色なのだと思います。

  5.  じゅのさん、こんにちは。
     最近、あまり写真を撮る気分にも言葉を綴る気分にもなれなくて、なんだか疲れちゃったな、と思っていたの。考えたり感じたりするのが億劫で。そういう時期なのかな。
     悲しいとか懐かしいとか、そういう想いを思い出すのもつらくて、あえて封じ込めようとして。切ないのに、そういう想いを抱いている時が、きっといちばん好きなのに。
     でも、ここに来ると、そういう気持ちを思い出します。
     切ないとか、悲しいとか……そうなのだけど、それだけじゃなくて。わたし、手に余るこのどうしようもない感情が、やっぱりどうしようもなく好きなんだなぁって思うのです。

     引きとめて欲しかったのか、後押しして欲しかったのか、もう分からないな。空の彼方まで飛んでゆきたい。

    •  鞠乃さん、私にも周期的にそういう時期があります。
       写真も言葉も何だか疲れて興味が持てない。嫌いというわけじゃないけれど、心が渇いていて。たぶん、そういうときはそのまま何もしなければいいのだなと、私はいつも何もせずに過ごしています。

       引き止めて欲しいのか、背中を押して欲しいのかわからない。それはきっと何もかも。
       好きなのか嫌いなのかわからないし、進みたいのかとどまりたいのかもわからない。生きていたいのか消えてしまいたいのかもわからない。相反した気持ちの間で揺らめきながら迷って迷って、今日も明日も過ごしていく。
       だから切なくて悲しくて、その想いは決して消えることなく続いていって、耐えられなくなったら言葉が溢れ、溢れさせることにエネルギーを使い切ったら、絞りかすのように過ぎてゆく言葉も風景も見送っている。
       生きている限りそんなことの繰り返しなのかなと。

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