BBS (~2012-05)

Message board (2010-12~2012-05)

 

じゅのから鞠乃への返信 | May 25, 2012 11:20 PM | Reply
鞠乃さん、こんばんは。
環境の変化は本当に疲れるものです。今まで持っていた習慣を取り戻すのにもかなりエネルギーを使いますよね。このブログは非常に更新頻度が低くて申し訳ないのですが、それでも某か鞠乃さんのお役に立てているのでしたら嬉しいです。
安心して忘れてね。いつもそんな存在であれたらと思っています。
例えば好きなウェブサイトがあって毎日訪れていたとして、何かのきっかけで何となくそこを訪問する習慣がなくなってしまった。でも数年経って思い出して行ってみたら、何も変わりなく同じようにそこは存在していて、数年前と同じように自分を迎えてくれたら、すごくほっとすると思うのです。
そんな風に、たまに思い出して振り返ったら必ず存在しているような安心になれたらなと。周りが変わってしまって取り残されるのが寂しいから、自分は変わらない安心でいたいと思うのでしょうね。
お花はたぶんビオラだと思います。可愛らしい花ですよね。
道ばたの気が早い紫陽花がもうぼちぼち花を咲かせています。もうすぐ梅雨ですね。

 

鞠乃 | May 25, 2012 9:46 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは。新しい環境への疲れからか、ちょっと気力を失い気味な日々ですが、じゅのさんの繊細な言葉と写真たちに触れて、元気をもらっています。
「追分」「月影歩行」「木々のように空のように」大好きです。いえ、全部大好きなのですけど、特に好きです(^^;。中でも、“安心して忘れてね”という一行は本当に沁みました。忘れたくない、忘れてはいけない、そんな感情いっぱいで生きていたから。変わらずに在りつづけてくれる、そんな存在に憧れにも似たような気持ちを持っていました。
それと「花は夢」の写真は、ビオラかしら? 私の大好きなお花です。とっても可愛らしくて。もうすぐ六月。次は紫陽花の季節ですね^^。

 

じゅのから鞠乃への返信 | February 15, 2012 11:06 PM | Reply
鞠乃さん、こんばんは。
最近のカメラにはスケッチ風に撮る効果がついていますよね。あれは色が多い風景なんかは面白く撮れますね。「ひだまり」の写真は普通に撮って、PC上でフォトレタッチソフトを使って加工しています。この記事ではスケッチ風が良かったのですが、効果がない写真が欲しくなる場合もありますからね~。
白黒写真もだいたいPCで加工していますよ。カラーが良い場合もあるし、白黒が良い場合もあるし、どちらも対応できるようにまずは普通に撮っています。

どうでもいいものまで面白く撮るというの、よくわかります。被写体はどこにでもあるのですよね、レンズを通して見てみれば。「自分の周りには撮る物が無い」というのは、レンズを通す楽しさを知らない人の言葉だなぁと思うのですよ。私の場合は、写真は特別な場所ではなく慣れ親しんだ自分の周りでこそ撮れるものだという気がしています。「ひだまり」の写真も自宅から歩いて2分くらいの場所です(^^;。
鞠乃 | February 15, 2012 10:47 PM | Reply
じゅのさんこんばんは。「ひだまり」の写真、カメラの、絵のように撮れる機能ですよね♪ 違いましたらすみません(^^;。スケッチみたいで、すごく感じが出ていて素敵でした。白黒写真なんかも雰囲気が出て好きです。
写真、一度撮り始めると、どうでもいい物体まで面白くて撮っています(笑)。たかだか道端に生えている猫じゃらしだとか、今まで鬱陶しかったご近所さんの手入れもされていない鬱蒼と茂った林だとか、レンズを通すと、そんなものまでもが芸術に見えてしまうので不思議です。見慣れた自宅まで、新鮮に見えてしまうのですね^^。
私はいつも、影から「ひだまり」を眩しげに見つめていた立場だったような気がします。でも、私にはそれくらいがちょうど良かった。ひだまりの中心に立つには、あまりに眩しすぎて、やっぱり私には、憧れであるようなそうでないような、そんな想いで遠くの暖かい場所を見つめるのが好きでした。
どうしようもなく切なくて、どうしようもなく後悔するのに。

 

じゅのから鞠乃への返信 | February 1, 2012 12:51 AM | Reply
鞠乃さん、こんばんは。
今年は殊更寒いですね。私が住む東京都心など日本の中でももっとも暖かい場所だと思いますが、それでも今年は冷えると思います。インフルエンザなど流行り始めているようですが、お元気そうでよかったです。
鞠乃さんが性能の良いデジカメを購入されたのはブログで読んで知っていましたので、どんな写真を撮っていかれるのか、とても楽しみにしています。
鞠乃さんはいつも私の写真を褒めて下さいますけれど、私はすごく下手ではないかもしれませんが、写真の勉強とか全くしたことありませんし、見る人が見ればど素人の大したことのない写真だと思います。写真は感性ですから、私の感性を好きだと思って下さる鞠乃さんはきっと写真からメッセージを受け取って下さっているのだと思います。
私は高校生の頃に一眼レフを買ってそれからずっと一眼レフを使っていますが、当時はフィルムだったし、今みたいにカメラが自動でピントを合わせてシャッタースピードを決めてくれたりしませんでしたので、撮りながら結果を見て覚えていった感じです。今のデジカメならばフィルムのように1コマ撮る度にお金がかかったりしないので、どんどん撮って感性で覚えていけば良いのではないかと思います。ただ、この辺は人それぞれなので、本を読んで勉強しないと駄目な人もいるのかもしれませんね。
ここに載せている写真ですが、95%くらいは日本で撮ったものです。美しい風景の外国へ行ったからといって気に入る写真が撮れるわけでもないんですね。珍しい写真なら撮れますけれど。どこで撮っても結局撮った枚数の0.1~0.2%くらいです。ここで使える写真は。
あんまり気負わず、とにかくシャッターをおしてみてくださいね。カメラと仲良しになること、そしてカメラを通して見える光と仲良しになることだと思います。

 

鞠乃 | January 31, 2012 8:17 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは。お変わりないですか? やっぱり冬は寒いですね(^^;。北海道とか、絶対行けないなぁと感じます。
「夜空は記憶のみちしるべ」素敵です。タイトルだけでも遠くの空に、想いを馳せたい気分になります。「銀河鉄道の夜/宮沢賢治」を連想しました。星とか夜空とか、神秘的で心に優しいなぁとよく感じます。いつも似たような感想ですみません。もっと私がたくさんの語句を知っていれば良かったのですけどね(^^;。
最近、それなりに性能のいいデジカメを買いまして(今までの性能が悪すぎたのもありますが)、いきなり一眼レフなどはまるっきり分からないので、少しずつ始めてみようかと思っています。結局ばたばたとめまぐるしく日々が過ぎてゆき、まだまだこれからの状態です。
じゅのさんは、写真を始められた頃、独学というか、ご自分で何か本を見たりして学ばれたのですか? 角度や写し具合・タイミングなども本当に素晴らしいので^^。じゅのさんの写真たちは、本当にひとつひとつ綺麗で切なく懐かしい気持ちになるので、大好きです。
色々聞いてしまって申し訳ないのですが、ここに載せてある写真たちは、日本でお撮りになったものなのでしょうか? 外国なのかなぁと思うこと、時々あります。ともあれ、様々な視点から、何気ない場所も詩になるような写真にしてしまうじゅのさん、尊敬します。
お人形さんたちも美しい風景も、じゅのさんが笑いかけ話しかけ見つめて感じて、そうして出来上がったひとつの表情なのですね♪ 私も少しずつ頑張ります。

 

じゅのから鞠乃への返信 | November 8, 2011 11:55 AM | Reply
鞠乃さん、いつもありがとうございます。
もしかしたら、鞠乃さんは撮っている私以上に、書いている私以上に、記事の中の世界を見て下さっているのかもしれません。そんな気がしました。透明、そんな風に見て頂けるのでしたらとても嬉しいです。ただ、心に焼き付けたいもの、忘れたくないものを切り取って残しているだけなのです、私の写真は。技術もないですし。
帰る場所、そう簡単にわかるものではないですね。分かる人もいるのかもしれませんが、私にも難しいです。
今住んでいる街は、便利で綺麗でお洒落で楽しくて、多くの人に羨ましがられるような場所で私も気に入っていますが、帰る場所だという心のインスピレーションはありません。ここは通りすがりの地。もしこの先死ぬまで住み着くことになっても、私の心が本当に喜ぶ場所ではないということだけはわかります。私は生まれてこの方、もう数えるのもイヤになるくらい移り住んできましたが、1箇所だけとても心が懐かしがっている場所があります。二度と戻れない場所だし、そこにいるときも、一度離れたら戻れないことを知っていた、やはり今の場所と同じ人生の通りすがりの地。だけど、あそこは心が帰りたい場所だったのかもしれません。まだわかりませんけれどね。
以前も鞠乃さんは心配されていましたが、私が書いたものも撮ったものも、ここにアップした時点で既に固定され、私を離れています。だから感想をいただくことで何かが壊れたりすることはありませんから、どうか安心してくださいね。
多くの人に見てもらいたいとか読んでもらいたいとかは全く思っていませんし、むしろその逆ですが、鞠乃さんというすごく理解ある読者がいて下さること、とても嬉しく思っています。

 

鞠乃 | November 2, 2011 10:17 PM | Reply
「ホーム」 涙が溢れてしまいました。なんて綺麗な景色なのでしょう。私の大好きな、風が見えるようです。
じゅのさんって透き通った方だなぁと、いつも感じます。写真の一つ一つが、カメラのレンズを通して撮っていると言うよりも、じゅのさんの心の窓から直接映しているように感じます。技術とかそういうのではなくて、何だか本当に透き通っているな、と思います。私は曇りガラスで世界を見ることが多いから、例えじゅのさんのような写真の才能・技術を持っていたとしても、こんな風に透明な彩りを写すことはできないと思います。
じゅのさんの帰る場所は何処でしょうか。私の帰る場所はまだ分からないままです。懐かしい場所はすぐ近くにあるような気がするのに、なかなか見つからないのです。何処にあるのかな。一生見つからないのかな。
でも、好きな場所はあるのです、きっと。言葉にはできないから、本当にそんな場所があるのかも分からないし、私もそれが何処なのか分からなくて。今は、ただただ願っているだけ。好きな場所が、懐かしい場所が、ちゃんと心の奥にありますように。その場所を見つけた時に、心がちゃんと気づいてくれますように、と。

今となって考えてみて、私じゅのさんの言葉や写真に沢山感想書かせていただいていましたが、それってあまりよくなかったかな、なんて考えています。
じゅのさんの言葉にも写真にも、言葉では言ってしまえないほどの深い意味があると思っています。それを感想を述べてしまうことで、固定された意味になってしまうかなぁと。もし、前にも同じようなことを書いていたらすみません(^^;。
決してそういうわけではありません(^^;。私、じゅのさんの言葉と写真が一体化された時の感動、毎回味わっています! 何だか本当に帰る場所があるような気がして、大好きで、コメントさせていただいているだけです。
もしも、見当違いな感想を書いていましたら、本当にすみません><。でもやっぱり大好きです! (すみません、いきなりこんなこと。メールで送ればいいのでしょうけど……*以降の文章は、消して下さって大丈夫です)

 

じゅのから鞠乃への返信 | October 18, 2011 2:16 PM | Reply
鞠乃さん、いつもありがとうございます。このところ忙しくてすっかりお返事が遅れてしまいました。ごめんなさいね。
「残像」に使った写真は私の何気ない日常の風景、多分誰もが一度や二度はきっと見たことがあるのではないかと思う、ありふれた風景を切り取ってみました。ありふれているからこそ懐かしくて、過去に同じような光景を見たいくつもの瞬間が瞬時に脳裏を過ぎって私は切なくなります。私が写真を撮りたくなるのは夕刻が多いのですが,光の効果が日中より強く心に時の流れを訴えるからなのかなと思います。
そう、記憶はどんな人とも共有できないし、自分が自分である証し。そして自分でさえもそれをコントロールすることはできず、魂に刻み込まれる。だから切ないのでしょうね。自分と共に生きて自分と共に消える愛おしい自分の一部でありながら手が届かない。。。
「Malentendu…」は、どうしようもなく手の届かない、離れてゆくもののイメージとして水の上に浮かぶ花を使いました。そんな風に写真を見て下さってありがとうございます。

 

鞠乃 | October 11, 2011 6:11 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは^^。「残像」を見るたびに思い出します。幼い頃から、脳裏に焼きついて離れない、写真のような一場面。それこそたったの一回か、もしくは生まれてきてから一度も見たことがないものかもしれないのに、すごく懐かしくて忘れられない。ふとした瞬間に、その景色によく似たものを見た時、ずっと昔から知っているような、もどかしいような気持ちになるのです。
既視感、というものなのでしょうか。多分、誰にでもそういうものって一つや二つはあると思うのですが、私にとってそれは、夕刻に起こることが多かったです。幼い頃から、夕方というのは私にとっては恐怖というか、ある意味自分をコントロールできなくなる、鬱っぽくなる時間帯でした。
夕方のあの黒みがかった橙色の光景が、いつもいつも私に焦燥感を与えて、襲いかかってくるような気がしたのです。けれどそれと同時に、懐かしくなるような感情も覚えています。夕方の「夕」や「汐」という字も、なぜかすごく好きだったんです。
記憶ってきっと、どんなに好きな人とでも絶対に共有できないもの。例え同じ時間を過ごした人でも、その記憶に映る景色はそれぞれ全く違ったもので、感じ方や覚えている内容がよく似ていたものだったとしても、やっぱり分かち合えないと思うのです。感触も懐かしさも切なさも、自分の記憶は自分にしか分からないものなのではないかなって。
記憶を塗り替えるなんて不可能だし、全く同じ記憶を現実にもう一度繰り返すこともできない。それは「過去」で二度と戻ってこないもので、頭でも心でも忘れてしまっても、魂が覚えていて。だから記憶は切ないのかなぁと思います。
「Malentendu…」とても好きです。お花の流れる川があって、本当に水の上を流れているみたい。時間も記憶も自分自身さえ、止めることができないような、哀しさを感じました。止めたくても止められない、なくしたくてもなくせない、誤り。
そんな渦の中に巻き込まれている花は、なんだか私のような気がしてきました。

 

じゅのから鞠乃への返信 | July 12, 2011 2:56 PM | Reply
鞠乃さん、こんにちは。
変わらないものを探して最後に辿り着くのは自分自身の心、そうですね、変わらないものを探すというのは、失ってしまった、あるいは忘れてしまった自分の記憶の欠片を探し求めるようなものなのかもしれません。
毎日本当に暑くて参りますけれど、空は本当に綺麗ですね。ここ数年、梅雨が明けても今ひとつ青空の色が霞んでいる気がしていましたが、今年は何だか綺麗です。
雲には形がない、縛られることもない、好きな場所に現れて、風のままに流されて、他者の光に照らされ色を変えつつ、やがてすっと消えてゆく。でも目に見える形が消えただけ、雲を構成していた物質は形を変えて巡り巡り、またいつか雲となる。
なるほど、雲は空に浮いているのではなく、中間地点を漂っているということができますね。空は高くて高くて、どこからが空かわからない、もっと果てしないもの。それに比べると雲はとても身近なものでもあります。私たちの世界に属すもの。
今、丁度時計は15時を回ろうとしています。
鞠乃さんの仰るような、オレンジ色の光を含んだような積雲がほわほわと漂っています。そうなんですよね、雲は光を含んでいるから、同じ積雲でも、不思議と見るだけで夏の雲だとわかる。決して冬ではないとわかる。雲のそういうところが魅力的だと思います^^。

 

鞠乃 | July 11, 2011 11:33 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは♪
本当ですよね……。私も「変わらないもの」をいつもいつも求めています。それは、私を悲しくさせるだけなのに、それでもやっぱり探してしまう懐かしい場所。結局最後に辿り着くのは、自分自身の心だったりするのですけど(^^;。
最近、雲がすごく好きです。なんて美しいのだろう、といつも思います。今まで、「青い空に浮かぶ白い雲」ばかりを想像していましたが、実際に雲はそれよりも何倍も素晴らしくて何倍も表情を持った、芸術そのものでした。
“雲は空の上に浮いている”というのは、間違っているな、と感じました。雲は、空に浮いているわけではないような気がして。よく見てみると、空はもっともっと高い場所にあって、雲はその中間地点にあるだけのこと。空と雲は別のものなのだなぁ、と今更ながら思ってしまいました。
夏は、夕方のピンクと紫が混ぜ合わさったような色の雲や、午後三時~六時くらいの間の雲がとても好きです。夏の昼間は空が眩しすぎてあまり上を見られないのですが(^^;、午後になってくると光を中に含んだ?みたいな淡いオレンジ(黄色)のような雲が見られて、それが大好きです。
説明が下手ですみません><。それに、雲の話ばっかりで……。雲はいつ見ても違うものだけれど、見上げれば変わらずそこにあって。好きなように色を変え、気の向くままに形を変え。じゅのさんの「雲になりたい」というお気持ち、すごく分かる気がしました。

 

じゅのから鞠乃への返信 | June 28, 2011 8:52 PM | Reply
鞠乃さん、いつもありがとうございます。
「消えてしまいたい」は、きっとなかなか理解されない願望だと思います。「死にたい」ではないんですよね、あくまで「消えたい」。自分の存在が苦しい。「死ぬ」は自分の存在を認めてそこから去ることだけど、「消える」は、自分がここに存在していること自体をなかったことにすること。だから「消える」の場合、残された人の心配など無い。先も後もない。だけど、多くの人はその二つを区別しない。
「一人になりたい」も理解されませんね。
私も、人に気を遣いながら一緒にいるより一人でいたいと思うのに、一人でいる人は「寂しい人」「可哀相な人」だと決めつける世の中があって、一人でいようとすると、そうさせまいとする社会の圧力に反抗しなくてはなりません。疲れます。放っておいて欲しい、どうして放っておいてくれないの。そう思ってどこかへ出て行くこと自体がイヤになってしまう。
せめてお花の妖精になりたい、鞠乃さんがそう思うように、私は空を流れる雲になりたいと、いつもいつも思ってきました。誰にも構われずに風に流され形を変える。好き勝手に泣いたり消えたりする雲。
もちろん雲になれる筈もないし、消えられるはずもない。持て余したその心をたまに短文や写真にこめている気がします。
私の方もとりとめのないレスですね。
思うままにメッセージ下さってかまいませんので、また気が向いたら書いて下さいね。

 

鞠乃 | June 25, 2011 5:26 PM | Reply
一人になりたいです、とても。誰かがいるといつも、心が折れてしまいそうになる。帰る目的も何もかも失って、全てを忘れてしまっても、やっぱり帰りたくなるのですね。覚えているのは心だけで、頭の中は靄がかかっているみたいで、それでも本当はそのくらいが丁度いいのかもしれません。
たとえ美化してしまっているだけだったとしても、自分の中で美しいものとして残っている心の故郷。帰りたい場所が何処かも分からないのに、帰りたいと願い続ける日々。私は何処から来たのだろうな、とか、私は何処へ帰ってゆくのだろうな、と考えて考えて考えて……でも、誰も教えてくれないです。
私が望む答えは、世界中の何処にもないような気がして、それならばせめて、お花の妖精として生まれ変われたら……と思います(^^;。何も喋らずに、何も考えずに、一時だけ綺麗な花を咲かせて短い一生を終える。花はいつも、孤独そうに見えるから……それを見るのがとても好きです。孤独でも綺麗だから、だから好きなのかな。
「消える」ことが夢だと言えば、呆れられ心配され引かれて、だったらあなたは死んだ後はどうするの? と訊きたくなります。何を信じたらいいのか分からないけれど、皆「人はいつか必ず死ぬのだから」と言うのに、どうして「消えたい」と言うと、いちいち心配したり理由を問い質そうとしてくるのか、本当に不思議になります。
じゅのさんの写真の紫陽花みたいに、雨に溶けて消えてゆきたい……。どうしてこんなにも優しくて悲しい世界が描き出されてゆくのでしょうか。「Midsummer’s dew」の花が、泣いているようにに見えて、本当にお花になりたいと願ってしまった瞬間でした。
何だか訳の分からないメッセージになってしまい、すみません(^^;。

 

じゅのから101匹ニャンチャンへの返信 | June 14, 2011 6:53 PM | Reply
101匹ニャンチャンさん、初めまして。
このような秘境のブログへようこそお越し下さいました。
私が書いているものがポエムと呼べるものなのか自信がないのですが、確かに、正しくここで私は「何の縛りもなくただ思うままに言葉を綴る」ことをやっていると思います。
たまにしか更新しませんが、宜しくお願い致します。

 

101匹ニャンチャン | June 14, 2011 5:50 PM | Reply
はじめまして、私はハンドルネームを101匹ニャンチャンと言います。ねこ好きなところからつけた名前ですが、我が家には7匹のねこちゃんたちがいて、いつも楽しく暮らしています。
私は『Life Is Beautiful』と言うタイトルのブログを持っていて、様々なジャンルの記事を書いています。
一番好きなジャンルはポエムで、時々思いつくままにポエムを書いて皆様にご覧いただいています。
自分もポエムを書くのが好きですし、人の書いたポエムを見るのも好きです。
ポエムというのは、何の縛りもなく、自分の思うままに自分の感じたことを表現できるという意味では最高の表現方法ではないでしょうか。
じゅのさんのポエムをまた見に来たいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

 

じゅのから鞠乃への返信 | May 19, 2011 8:23 PM | Reply
鞠乃さん,こんにちは。いつもありがとうございます^^
「春の風が吹いて」は,本当に本当に単純に,ある日の春風の匂いに感じたことでした。昔々私が人生を転がり始めてまもない十代の頃,先頃亡くなった田中好子さんを含むキャンディーズの歌が大好きな,今と変わらず空が好きで風が好きな少女だった頃,あの頃なりの哀しさや切なさを感じながら嗅いだ春風と同じ匂いを。
生命が芽生える春ですが,それは同時にそれ以前にあった何かの終わりの上に始まる,だから春は寂しいし切ないし,華やかさと美しさが余計にそれを感じさせます。そう,まさに「希望の季節だからこそ」の切なさですよね。春が美しければ美しいほど,余計に哀しく感じられるという気がします。
「終焉」は,そうですね,そんな風に読んでいただけて嬉しいです。これはある時見た夢の中の私が体験したこと。あまりにリアルだったから,本当の自分だったような気がしてやっぱりいつまでも忘れられない夢の中の一コマです。有限の時間の中で何をしたら良いのか,何もできずに焦っている普段の私なのかもしれませんが(^^;。
日常のブログの方までご覧頂いて,どうもありがとうございます。あそこは何も考えずに書き殴って写真を貼り付けているだけの場なのでお恥ずかしいですが,あの蕾を見ていただけて嬉しいですよ。本当に可愛らしかったので。
薔薇の花は咲き始めた瞬間が一番美しい,その瞬間をめざしてあんなにもすっくと立っている様子が愛おしいと思いました。一瞬の輝きのために躊躇せずに生命の力を振り絞って頑張るのですね。私にはできないです(^^;。

 

鞠乃 | May 19, 2011 4:21 PM | Reply
「春の風が吹いて」「終焉」切なくて好きです。やっぱりじゅのさんの言葉、好きです^^。
私の中で、切ない恋って好きなのですよね。なので、“自分以外のものは今も昔も変わらずあり続けるのに、自分の心にあなただけがいない”……恋愛経験がないので分からないはずなのに、胸をキュッと掴まれた思いです。春って希望の季節だと言われるから尚更、切ないなぁと思うんですよね。前に進まなくちゃな、と思いながらもやっぱり未練があって……そういうの綺麗だなぁと思います。よく、“心の中では生き続けるから”って、そういうのを好む方がいますが、そうやってひとくくりにするの、あまり好きではないです。だから、春風と共に去りゆく命と消えゆく想い、その儚さと優しさが満ちていて好きです。
風が強くなり、それに比例して時間が少なくなっていく……そのもどかしさや焦燥感が美しい描写だなぁって。自分の中での葛藤とか戦いとか、結局はその人の心の持ち次第だったりするのですけど、あるある! と思いました。理屈っぽくなってしまってごめんなさい(^^;。
ブログの薔薇も、とっても綺麗ですね! こんな見事なつぼみ、実際に見たことないです(^^;。淡い黄色の薔薇、好きだなぁ……。お花って不思議ですね。あんな小さな種(球根)から、色鮮やかなかぐわしい花びらを咲かせて。生命の源を感じます。

 

じゅのから鞠乃への返信 | April 13, 2011 11:26 PM | Reply
鞠乃さん,こんにちは。いつもブログでお会いしているような気分になっていますが,そういえば,少しお久しぶりですね。
「交差点」と「etranger」,鞠乃さんに気に入っていただけて嬉しいです。
「etranger」の写真はずっと何かに使ってみたくて,でも上手く使えず,長いこと温めてきた写真です。もう10年近く前に訪れた遠い異国の街の何気ない路地。何かの物語から切り取ってきたような,しかしそれでいて確かなる現実の風景。「etranger」を紡ぎ出したとき,この写真を使おうと迷い無く思いました。
この風景の中の一部になりたいと思ってひとときそこに滞在しても,結局自分の世界へ戻らなければならない,決して自分はそこで暮らす一員にはなれないエトランゼ。鞠乃さんの想像している世界と何か通じるものがあるのかもしれませんね。
「交差点」も鞠乃さんの想いと重ねて好きなように読んでいただいたら,それが一番嬉しいです。
逆らえない運命の流れ,それに巻き込まれ,別の流れを垣間見ても,どんなにそれに憧れて,どんなにそれを引き留めたくても,自分は自分の流れに流されてゆくしかない。違った流れに乗ったものとは,為す術もなく離れてしまう。人生の一コマに感じるそんな寂しく切ない気持ちを漠然と書いています。

 

鞠乃 | April 13, 2011 9:35 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは。少しお久し振りです(^^;。
少し前のポエムですが、「交差点」と「etranger」がとても好きです。いつも写真との組み合わせが本当に素敵だなぁというのと、言葉の並び方がすごく好きでした。
特に「etranger」の写真には、何だかすごく親近感のようなものがわきました。最近よく、自分が想像で創造した狭くて小さな世界があって、その中に入り込んで一生出て来れなくなればいいのに…と思うことがあります。
上手く説明できないのですが、「etranger」の写真の中のような、“幻想的な見知らぬ土地”といったイメージです。そう思うと、(その世界に)入り込みたいと強く願っても、結局いつかは現実の世界に戻ってこなければならなくて、とてももどかしいのです。
そんな思いが二行の中に詰められている気がして、共感しました。勝手に解釈してしまってすみません(^^;。
「交差点」は、この詩の意味とは違ってしまうかもしれませんが、私も物事に対して、少しだけでいいから逆らってみたいな、と思ったことがあります。
きっと川の流れ一つ一つも、全て違うもので、その中でも巡り合うのはほんの一瞬。ぶつかり合った時に生まれた想いも流れが全て巻き込んで、それぞれ別の場所へと向かっていく。留まることも戻ることもできない。
それは自然の原理だから仕方のないことだけど、時にはしばらく留まっていてほしい時もある。たとえいつかは離れなくてはいけないのだとしても…。
何だか、自分に当てはめて色々と考えてしまいました^^。すみません。また来ます♪

 

じゅのからporuchiへの返信 | March 14, 2011 7:32 PM | Reply
poruchiさん,コメントありがとうございます。
ほんと,余計混乱させているだけだと思うし,あれ見ていると憂鬱になるだけです。誰かが Twitterで言ってましたけど,一番冷静ではないのがマスコミに見えます。やたらセンセーショナルに視聴者の不安を煽っているだけ。これぞ電気の無駄遣いでは?と思ってしまいます。
放射能も,以前中国がロケット打ち上げたときに東京へ降り注いだ量より少なく,放射線技師の方々が年間に被爆する量より少なく,被爆しても除染できる。なのにそんな情報は流さない。
停電による電車の混乱も,混乱しているところばかり報道して,混乱していない情報はいっさい流さない。
被災地の避難所の中の様子を画面に映し出すようなのとか止めろよと思います。失礼です。映像も同じ物,特に酷そうなものばかり選んで繰り返し流していますし,何がしたいのだろう。我が家ではもうテレビ切ってます。
録画したアニメとかどんどん見ればいいと思いますよー。うちもアニメ見たりゲームしたりして,できるだけ楽しく過ごすようにしています。
西日本の方々はできるだけ普通にしていて!とどなたかがどこかで言っていましたが,私もそう思います。
やれることはやる,でも地震に振り回されずに普通に生活をするよう心がけようと思います。それにはまず,テレビを切ることが重要かもです。

 

poruchi | March 14, 2011 6:04 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは。
「うるさい」全くその通りだと・・。
同じ映像、今必要じゃない地震のメカニズム検証・・etc知りたいのはそこじゃないのにと思う事ばかりです。
色々流し過ぎて余計混乱させてる気がするのですが・・・。
原発も気になりますけど、結局何を持って冷静に。とか大丈夫なのかよく分からないし。
TV見てると、どういうことなの?。と思う事ばかりです。
なので、合間に録画したアニメとかテレ東見たりしてます。(不謹慎なのかな・・・)
その後また余震も続いていて、速報出る度にこちらもドキドキしますが「頑張ろう日本」の気持ちで・・・みんなで乗り越えたい!。

 

じゅのから鞠乃への返信 | February 18, 2011 9:23 PM | Reply
鞠乃さん,いつもありがとうございます。
自分では良い写真がなくて困っている状態なのですが,綺麗と言っていただけてホッとしています。「失墜」の写真なんて,日没時に乗っていた飛行機の窓からたまたま綺麗だと思って撮った風景で,コンパクトデジカメの何の工夫もない写真だったので(^^;。
そう,「積乱雲」の写真は,「私はこの暗い空の下で一人で咲いていたいのよ」っていう雰囲気ですよね。私もそれをイメージしました。鞠乃さんにうまく伝わって嬉しいです。
私も青い空も白い雲も好きですよ。暗い空に黒い雲も好きだし,どちらの方がより好きってことはありません。(だから,曇天や雨天のことを「天気が悪い」と言うのは嫌いです。) ただ,その時の気持ちによって,よりどちらに惹かれるとか,よりどちらに寄り添えるとか,そういうのがあります。
で,「あまりに青いから哀しくなる」件ですけれど,実は,今日アップした「空」と対になったつぶやきに書いています。何だか鞠乃さんが書いて下さったことと全く同じ,そのものズバリなのですが,もう書いちゃってあるので,そのままアップしますね。明日か明後日アップしようと思っていました。
雲はいいですよね。私は幼稚園児の頃から雲が好きなのです。中学生の頃までは「大人になったら気象台に勤めよう!」と思っていました。私の頃はまだ気象大学校は男子のみの入学で,それを知って随分絶望的な気分になったものですよ。私はずっと地学に関わってきたので何人か気象台へ勤めている友人もあるのですが,体力的にも凄く大変な仕事なので結局どちらにしても無理だったと思いますが(^^;。
閑話休題,ほんと,雲を見ていると飽きないし,雲と共にどんな世界へも入って行けそうで,郷愁がかきたてられます。そう,青い空や白い雲の向こうに見るのは,私にはノスタルジアで,だから哀しいし,澄んだ空であればあるほど向こうが透けて見えそうで哀しい気がします。
美しさは色々な意味で哀しさと隣り合わせなのかもしれませんね。そして,美しいものだけしかないのなら,美しさも哀しくないのかもしれません。

 

鞠乃 | February 18, 2011 7:35 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは。メッセージありがとうございます♪
写真が本当に綺麗で、感動しています。「失墜」などどのように撮られたのか……、本当に綺麗ですよね。雲にかかったピンクグレープフルーツ色(笑)の光がとても好きです。
じゅのさんの写真も言葉も全て好きなのですけど、「乱層雲」は本当に好きだなぁ。何だろう、花びらが泣いているような気がして、誰にも何にも見つからずに静かに咲いて静かに枯れてゆきたい、というように感じました。
私は青空も白い雲も好きです。青い空は本当に何処までも青く澄んでいて、心ごと吸い込まれていくように感じるけれど、あまりに青いから時々哀しくなるのです。濁りのない青が私の心を見透かしている気がして、「もういいよ、これ以上青くならないで」って思ってしまう。
雲は、随分前に雲がとても好きな同級生がいて、その子の影響で好きになりました。色々な形に変化していき、ゆっくりだけど風と共に動いている。あの悠然とした穏やかさというか、自然の流れを感じられる雲が美しいな、と思いました。
でも、美しいからなのかな。無性に切なくなって、とてもとても哀しくなる。私はいつも、夢の中が良かった。だけど、夢の中でなくても美しい世界はこんなにも沢山あるのですよね。それなのに夢や自分の空想の中に留まっていたいと思うのは、美しさや現実を“哀しい”と思ってしまうからなのかもしれません。
世の中で言えば、『醜い』とか『批判』だとか言われる感情でも、私はそんな感情も好きです。美しいだけの感情だったら、こんな風に言葉や自然を見ても“美しい”と感じられないだろうし、目を逸らせたい感情もあってこそ、切なくなって泣ける気がして……。
よく意味の分からないコメントですみません(^^;。またお邪魔しますね♪

 

じゅのから鞠乃への返信 | February 12, 2011 10:25 PM | Reply
鞠乃さん,いつもコメントありがとうございます。誰も読まなくてもいいやと思って更新しているブログですが,やっぱり読んでコメント下さる方があるというのはとても嬉しいことですね。
「風のプリズム」は,星々の前を通り過ぎてゆく空気の流れ,星を煌めかせ星の光を分離させる大気の揺らぎなどをイメージし思いついた表現でした。そんな風にイメージを膨らませて下さって嬉しいです。
シリウスという青白い輝星がありますが,昔の文献で「赤い」とか「赤い血を流す」と記されていることがあるのですよ。冬型気圧配置の風の強い日,ギラギラと輝く星は瞬間だけ七色に分離して見えたりします。そんな星は一人孤独にもがいているように見えるような気もして。
そう,星って私にもロマンチックに輝いているものではなく,寂しさや冷たさ,孤独,そこから発展した強さなんかのイメージです。うんうん,わかります。星の寂しさは郷愁を誘いますよね! 星はいつの時代に見てもどこから見ても同じ並びで輝いているから,尚更郷愁を感じさせます。
東京都心部でも昨日は雪でしたが,水分の多い雪がどさどさ凄い勢いで落ちているって感じで,とても「ひとひら」と呼べるようなフワフワした雪ではありませんでした(^^;。一応カメラを持って外へでましたが,雪が落ちる速度が速すぎて,とてもじゃないけど綺麗な写真は撮れませんでした。
でも,見上げるとやっぱり空に吸い込まれていくような気がしましたよ。雪雲の空は一様だし,落ちてくる雪を見ていると相対的に自分が上っていくように錯覚するのですね。でも,空に吸い込まれていくような感覚って好きです。寒いからあまり長いこと空を見上げている根性はありませんけど(^^;。
この前は何となく話の流れで小学生の頃の学級裁判なんてこと言いましたけど,人によっては被告人にされても私ほど深刻に傷ついたりしないように見えました。本当のところはわかりませんけれどね。私の普段の行動には思ってもみない理由が加えられて罪状にあげられ,私にとっては心の地獄でした。私は「たまたまこの身体に宿って意識を持っている別人」になったつもりで,できるだけ他人事だと思ってその場をやり過ごしたものです。
教師は裁判の仕組みを学ぶ場くらいにしか思っていなかったのでしょうけど,私はその影響で,成人してからも長いこと自分は他人と交わることができないって思い込んでいたし,今でも学校などという場所と関わるのは心底イヤです。子供も嫌い。
傷つきやすさとか感受性とかは本当に人それぞれで,多くの人と違った方向へ敏感だと辛い想いをすることが増えますよね。
鞠乃さんが暗い日々になってしまっているのは,きっと自分と真剣に向かい合っているからでしょうね。社会で適応していくことが一生の目標,そうですね,難しいです。私は結局適応できないまま人生の半分以上を過ごし,適応を強要される機会が少なそうな場所へ逃げ込んで生きていますよ。ある日ここから追い出されたら何とかしなければなりませんが…まぁその時のことはその時に考えようと逃げています。
自分を殺さずに自分を変えるって本当に難しい。そうしなくても傷つかずに生きていけたらと思ってもやっぱり自分は自分だし,自分と上手に付き合うことが,きっと社会でうまく適応することなのかもしれません。
鞠乃さん,ここでも twitterでも,いつでも声をかけて下さいね。

 

鞠乃 | February 11, 2011 4:41 PM | Reply
じゅのさん、こんにちは。お言葉に甘えてコメントを^^。「風星の夜」と「追憶の華」がとっても美しくて、惚れ惚れです(笑)。
「風のプリズム」という表現、とても素敵ですね! 何か分かる気がします。星々に彩られながら吹き抜けてゆく、七色がかった銀色の風というか……、けれど星の寂しさや冷たさも共に抱えて通り過ぎるというか。解釈が間違っていたらごめんなさい(^^;。
星って“キラキラ光っている”というイメージよりも、寒々しいイメージの方が大きいので(その寂しげな感じが好きなのですが)、郷愁する心を誘う気がします。
そして、写真が素晴らしいです。やっぱりじゅのさんは本格的だなぁと、言葉と共に写真にも釘付けになってしまった(^^;。目に入ってくる影響力って偉大です♪
雪の詩も本当に素敵で。表現が柔らかくて好きです。「ひとひらふたひら,みひらよひら」など、日本語は美しいなぁと。ちなみに「追憶」という言葉、とても好きな言葉の一つです。郷愁のイメージが強くて。懐かしくなるような響きを感じます。
今日も雪が降りましたが、残念ながら霙っぽくて長続きはしませんでした。けれど雪って不思議で、ひらひらと舞い降りてくるのに、何故か天に吸い込まれてゆくような感覚になるのですね! ……と言っている今、また雪が降り始めたみたいです。雪は何か時別なものを感じますよね^^。心が穏やかになれるというか。
学級裁判のお話、物凄くびっくりしています。教師も止めないだなんて、本当に酷いです><。実行している本人達は、それが酷いと感じないのでしょうか。
私は自分がされていたとか、そういうわけではないのですが、他の子のからかいやいじめなどに対してかなり敏感なところがあり、何も出来なかった自分が歯痒くて本当に悲しかったです。それと同時に、いじめたりからかったり、本人達はそれが“酷い事”だとは思っていないのかもしれませんが、傷つく子は本当に傷つくと思う。
実際、私は本当に傷つきやすかったから(自分で言うのも何なのですが)、クラスでお楽しみ会を催して、それでバツゲームをして笑われたり……、そんな小さな事も物凄く苦痛でした。皆が普通に楽しんで当たり前にこなしている事でも、私にとっては一大事で、常に緊張しているような感じです。
何だか最近、twitterなどでもブツブツ呟き、黒~い本性出しておりますが、あんな事言ってても実際不登校になったりだとかもあったりして、言い訳ばっかりしているのです。
あんな事言いながらも、結局は当たり前の生活がきちんとできている人は沢山いるわけで、何か本当に情けないのですが。今後、自分を変えていかなくてはならないなぁと思っても、それはなかなか難しい事であったりして……。自分の性格上、多分こういう社会で適応していく事って、一生の目標(?)として抱えていかなくてはならないのだろうな、と。
ごめんなさい、こういう事はメールにした方がいいですよね。でも、私の話っていつの間にか悩み相談っぽくなっていて、じゅのさんにご迷惑お掛けしてしまっているかもです。
書き出して聞いて貰いたいだとか(かと言って皆に話せるわけではなく、話せない人には話せないのですが^^;)、本当にそれだけなので、軽く受け流してやって下さい(^^;。長々とすみません。

 

じゅの | February 8, 2011 11:52 PM | Reply
鞠乃さん,こんばんは。こちらこそ,いつもありがとうございます。
色々思うことはあっても,頭の中で自問自答していてなかなか書くに至らなかったり,私も常ですよ。そんなことをしている間に凄い勢いで時間は過ぎています(^^;。
何となくそうだろうなと思っていましたが,やっぱり鞠乃さんも群れるの苦手なんですね。
好きで一人で過ごしているのに可哀相と思われるのは全く遺憾ですよね。何でもすぐに恋愛と結びつける人たちも,本当に疲れますよね。そう考えるのは勝手だけど,私は関係ないから放っておいてくれないかしらと思います。
それに世の中ってとかく人をカテゴリーで仕分けするのが大好きなようで,「女性は」とか「最近の若者は」とか言いたがるし,安心なのでしょうか,そうやってあらぬ定義づけをしてしまうことが。

学校ってところは集団行動を学習する場とでも位置づけられているのか,本当にそういう機会が多くて,私も辛かったです。
私は小学生の頃,休み時間は一人で本を読むような子供でしたが,「みんなと一緒に遊ばない」という理由で「学級裁判」の被告人にされたことがありました。教師も止めませんでした。今思っても酷い話だと思うのですが,当時は今よりずっと傷つきやすかったし死にたいほど暗い日々でした。中学高校も決して明るくはなかったし,ほんと二度と学校には戻りたくないです。
学校を離れても日本社会は集団行動を重んじるところのようで度々イヤなこともありましたが,少しはマシになりましたよ。
私も感性に共鳴を覚える鞠乃さんにはついつい語ってしまいます(^^;
「どれだけ時が過ぎたって」のホオジロ君は,本当は初夏の日射しを浴びて若葉の中で気持ちよく歌っていたのかもしれませんが,こうして風景を切り取って写真にすると,まるで悲しいことがあって空へ向かって絶叫しているかのようにも見えて,この写真にしました。写真も詩と同じように,見る人の心によって読み取る内容が異なってくるのでしょうね。
私も鞠乃さんの言葉に自分が探している何かが宿っている気がして,いつもエネルギーをもらっています。いつでもメッセージ残して行ってくださいね。
語彙が少なくてなかなか美しい言葉は綴れないけれど,これからもぼちぼち更新していきます。

 

鞠乃 | February 8, 2011 8:24 PM | Reply
こんばんは♪ 書きたい事、なかなかまとまらずに時間ばかりが過ぎてしまっていました(^^;。少し前の「群れるのは苦手」という記事を読んだ時には、本当に共感してしまいました……、といつも共感ばかりさせて頂いているのですが(笑)。
最近は「女性は~」とか「○○の年代は~」とか、勝手にまとめられてしまう事って多いですよね。ただ“気が合う”だけなのに、異性といれば“恋愛”みたく勝手に決めつけられてしまったりだとか。また、私達からしては一人でいる事の方が気楽で幸せなのに、周囲から見ると『可哀想』という見られ方をするのも何とも勝手だなぁと。
私からして一人でマイペースに過ごす事が好みでも、学校なんかでは特に『集団行動』だとか何とか、私の理想と現実とではあまりに違いすぎて、戸惑い逃げ出したくなる事もしばしばです(泣)。今はさすがに見ないですが、小学生時代(?)は一緒にトイレに行き、同じ個室に入っている子とかいましたけど、私にはその神経が信じられなかった……。
長く語ってしまい、すみません。
「どれだけ時が過ぎたって」の写真、とても好きです。空を見つめている鳥と、生き生きとした緑と、何とも言えない空の色がすごくマッチしていますよね^^。
「余光」は本当に核心をついていてびっくり。やっぱりじゅのさんだなぁって。目覚めてほっとする気持ちと、夢に溺れていたい矛盾、あるなーって思います。
何度も断言しておりますが、最近は本当に暗~いです(^^;。頭も冴えずうじうじしていますが、じゅのさんの言葉一つ一つが癒しのお薬なので、パワーを充電しにお邪魔します(笑)。

 

じゅのから鞠乃への返信 | December 28, 2010 8:27 PM | Reply
鞠乃さん、こんばんは。コメントありがとうございました。
そして、こちらこそいつもありがとうございます^^。
共感していただけて嬉しいですよ。これ、差し支えありすぎてリアルな友人が見ているブログなんかでは書けたものではありません(^^;。マイナスイオンも全くその通りです。「単なる水蒸気でしょう、それ!」という偽科学です。理系出身の私には「陰イオン」でも「アニオン」でもない「マイナスイオン」なんて怪しい以外の何ものでもないのですが、信仰している友人たちに幾ら何といっても相手にされません(^^;。あれを信じ切ってしまうって、いったいどうすればそんな何も考えないことができるんだろうって思いますよ。ごめんなさい、思わず白熱してしまう(^^;。
「わたしは夢」のシリーズを気に入っていただけているのも、とても嬉しいです。ずっとずっと昔、まだ私がティーンエイジャーだった頃から私の中にあった言葉たちです。それを鞠乃さんは感じて下さっているのですね。
帰る場所を探して心はいつも孤独なのかもしれません。語彙が少なくて思うように書けずにもどかしいのですが、来年も言葉を綴っていこうと思います。
鞠乃さん、今年は本当にお世話になりました。できれば紅白を見て除夜の鐘を聞いて、どうぞよいお年をお迎え下さいね。そして来年も宜しくお願いいたします。

 

鞠乃 | December 28, 2010 8:05 PM | Reply
じゅのさん、こんばんは♪ いつも有難うございます。
「エコ(笑)」の記事、共感しすぎて思わず笑いが止まりませんでした(^^;。少し話は変わるのですが、最近はマイナスイオンが放出される扇風機なども見かけますが、見れば見るほど馬鹿らしく感じてしまいます。
結局何かに託けて売りたいだけですよね、多分。ティッシュなんかにも「地球に優しい」などと書いてあるのを見かけますが、木材を使っている時点で木が減ってしまうわけだから、地球に優しくないような。出せばキリがないですが。
「わたしは夢」大好きです。切なさが心に染み渡ってくるようで、郷愁する心にもどかしさを感じる。じゅのさんの言葉は一つ一つ、常にじゅのさんと共にいる感じを受けて、本当に自然に心に入ってきます。日本語は一文字一文字に深い意味が込められている気がするので、最近は日本語がとても愛おしく感じられます。
どうぞ、良いお年をお迎え下さい。