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2008年3月14日のダイヤ改正で廃止となった九州最後のブルートレイン,寝台特急富士・はやぶさ。
本州では「富士・はやぶさ」と呼ばれていたが,熊本で生まれ育った私には,例え連結運転していたとしても「はやぶさ」と「富士」は別の列車だったし,眼中にあったのは数知れぬ夜を過ごした「はやぶさ」のことだけだった。
廃止まで1ヶ月を切った熊本駅も私の心情と全く同じ様子で,「はやぶさ」のラストランを知らせる旗がそこかしこにひらめき,「富士」の名前は全く見られなかった。まるで廃止されるのは「はやぶさ」だけのよう。
おそらく大分駅ではこれと逆の風景が見られたのだろう。それは至極当然のこと。日本の中央から遠く離れた九州の街で,乗り換え無しで都会とを結んでくれる寝台列車は,本当に特別な存在だったのだから。
はやぶさの歴史,Webで簡単に分かることだが備忘録のために少しだけ振り返っておく。
右は1982年4月7日16時01分,熊本駅での「はやぶさ」発車の様子。
当時,東京−西鹿児島間を走っていた「はやぶさ」は,熊本−西鹿児島間を6両編成で走り,上り下りとも熊本駅で15分ばかり停車して,7両(食堂車を含む)を追加したり,切り離したりの作業をしていた。
下りの「はやぶさ」では,西鹿児島まで行く6両は博多を過ぎると寝台が片付けられて座席仕様になってしまうが,10時20分前後の熊本駅到着で切り離される熊本行き車両は最後まで寝台のまま。
熊本で乗り降りする乗客はこちらの座席を与えられることが多く,私はよく到着ぎりぎりまで寝台で寝ていたものだった。
13両編成の長い列車であったため,大牟田など一部の駅では一番後ろの車両がホームからはみ出してしまうほど。扉が開かないことを注意する車内アナウンスが流れていたことを覚えている。そんなエピソードからも,当時のブルートレインが如何にメジャーな交通手段として利用されていたかが窺えると思う。
その1982年,ブルートレインを主題にした映画があった。手元には,当時小学校六年生だった妹が学校からもらってきたチラシが1枚残っている。
そこには,「ぼくたちの夢をのせて、明日へ向ってつっぱしれ!青い流れ星!」というキャッチコピーが書かれており,「はやぶさ」の上で流星が長い尾を引いている。流れ星は,時刻表などで見掛ける寝台特急のトレードマークだった。
チラシによると,この映画は1982年の7月下旬に3日間,8月下旬に2日間,計5日間だけ熊本市内のホールで上映されていたようだ。
製作/中山映画株式会社,監督/中山節夫
ブルキチの小学校六年生の少年が親に内緒で「はやぶさ」に乗り込むという物語で,ブルートレインに憧れる子どもたちを,せめて映画の中だけでも「はやぶさ」で西鹿児島まで乗せてあげようという映画である。
妹からこのチラシをもらったものの,大学生の私は「親と子の楽しい夏休み映画会」に行く勇気は出なかった。それでも「はやぶさ」が載ったこのチラシを捨てることはできず,こうして今も,手元に残っている。
飛行機は高嶺の花,新幹線は東京−新大阪のみだった頃,長距離の移動には寝台特急が便利だった。幼児だった頃から乗る機会が多かった私には寝台特急が珍しいという意識もなく,必要が生じれば当然利用するものだと思っていた。
この映画のチラシを見て初めて“ブルートレイン”という呼び方と,「はやぶさ」が都会の子どもたちの憧れの列車であるということを知ったのだった。