じゅのとわたし

 ブログはいつも試行錯誤だ。
 ここも、自ら納得できるスタイルがなかなか決まらない。もう何年も続けているブログでさえそうなのだから、始めてまだ数ヶ月のここで、そう簡単に決まる筈もないのだが。
 決まるまではコンテンツ以外の場所をいじることに時間がかかる。

 少し前にコメント欄を削除した。
 このブログを見る人なんていないだろうと思ってあまり考えもせずにデフォルトのまま設けていたコメント欄だったが、パブリックにしていればどなたかの目に触れるに決まっているし、ここのコンテンツが好きだと思って下さる方がいらしたら、その方々が見に来て下さることは吝かではない。

 ひとたびパブリックにした言葉はその時点で自分だけのものではなくなる。目にした方はご自分の思うがままに読んで解釈する権利があるし、そうしていただけるなら光栄だとも思っている。
 しかし、どなたかの解釈なり感想なりを目にすることが自分にとって果たして良いことなのかと疑問に感じたのだ。パブリックになった言葉は確かに自分だけのものではないが,自分だけの思い入れはある。私がその世界にいなければ生み出されないという種類の言葉たちだから、あまりにそれとかけ離れたコメントをいただいてしまうと、苦しくてもう何も書けなくなってしまう可能性があると思ったのだった。

 今日は「詩」カテゴリーを削除して、「つぶやき」に統一した。
 「詩」と呼んでも悪くはないのかもしれない。が、「じゅの」はどうだか知らないが、少なくとも「私」は詩人ではないし、ただ思い描く世界を文字にしているだけ。「詩」という単語を使ってしまうと、そのイメージがつきまとって雁字搦めにされてしまい苦しくなると危惧したから。
 そもそも、こんな詩まがいなものばかりを書くブログにするつもりはなかったのだ。もっと日常や社会における愚痴や考察などを人に遠慮せず好き勝手に書きたかったから作ったブログだった筈。

 今後の「じゅの」にどういった行動をとらせるかについても決めあぐねている。
 このブログにはこのブログの役割がある。私が持つ他の多くのブログとは全く異なる役割で、それ故ここをどう扱っていいのか確固たる方策が簡単には浮かばない。
 ここに書いていることは、私のことではない。
 勿論書いているのは私だから私の一部が含まれていることは確かだが、1μmを100mに拡大したようなものばかりだ。
 リアルの友人知人が見ると誤解されて面倒だと思い誰にも知らせず書いてきたが、別にリアルの知人であるか否かは問題ではなかったのかもしれない。ここを通じて「じゅの」を知って下さった方々にとって、私は「じゅの」でしかあり得ないし、それなのに、このブログから一歩外へ踏み出したら、私は「じゅの」に成り切ることはできない。こう書きながらも、これを書いている「私」は「じゅの」ではないし、「じゅの」ではない者がここへ書いて良いのだろうかという疑問を払拭することができない。
 「じゅの」はここから出てはいけなかったのかもしれない。出ていけば、「じゅの」と「私」の狭間で途方に暮れることになるのは必至だったのだ。
 なのに「私」は「人」が好きだから、ついつい「じゅの」が出て行くことを許してしまった。

 投げられた賽の行方と「じゅの」を眺め、「私」はただ訝しんでいる。

ガンダム立つ