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早く寝たせいか時差のせいか午前5時50分には目が覚め,これ以上眠れそうにもなかったので起きることにした。集合は9時なので,かなり余裕。
カーテンを開けると空は白み始めており,天気は曇り。テレビをつけると,BBC Worldでフランス・ドイツ・ベルギーがアメリカのイラク戦争に反対しているというニュースを報じている。明るくなってくると雪が降っているのがわかり,ベランダに出て景色を撮ってみた。かなり冷えており,テレビでは,ブダペストの今日の最高気温は-2℃,天気は曇りと言っている。
雪が降っていても空気は非常に乾燥していて,髪の毛は静電気でバリバリ,肌もボロボロ。日本の湿気は嫌だけど日本人には湿度が必要なのだと,両生類になったような気分だ。バサバサになった髪の毛を少し濡らし馬油をぬりつけたりして身繕いをし,7時すぎには朝食へ出かけた。
エレベーターに乗ると,間違えて closed の階のボタンを押してしまったが,しっかり止まって扉が開く。明らかに工事中といった感じで,日本なら止まって扉が開かないようにするのでは?などと思う。
食堂はバイキング形式で,入り口の係員に部屋番号を伝えて勝手に食べる仕組みだ。禁煙席と喫煙席に分かれていたので,禁煙席に直行。
しかし,食物の種類は非常に少ない! 特に野菜が圧倒的に少ないと…いうか,ほとんどない。代わりにせいぜい果物を多めに食べるしかない。暖かいソーセージも1種類だけで,スープ類は無し。パンは何種類もあったが,食パンを除くとみんな固い。しかし,ヨーグルトとハムは素晴らしく美味しい。
食べながら周囲の様子を眺めてみると,我々以外にも日本人の団体客が入っているようで,食堂内はほとんど日本人だらけ。やっぱり女性ばかりだ。
食後は,自分で使ったトレーをトレー入れに仕舞って食堂を出る。
食堂を出ると,既にホテルの廊下が寒く感じ,これからの観光がちょっと心配になった。バスに乗ったら,早速靴カイロを付けた方がいいかも? 朝8時を過ぎても雪が降っていてあまり明るくならず,フィルムはISO400で正解だ。
玄関を出て,バスに乗り込みいざ出発。午前中は団体観光だ。昨夜は暗くてよく見えなかったホテルの全景をふり返る。確かに寒いが,耐えられないほど極端に寒いわけでもなくて一安心。
まず最初に,ホテル近くの英雄広場へ向かう。
道路に出ると,両脇に縦列駐車した車がいっぱいで,道幅が半分くらいになっている。ハンガリーではだいたい一家族に一台の車があるが,雪が降ると交通事故が増えるので冬の間は車に乗らない人が多く,約80%の車が違法駐車をしているのだという。雪を意識してか,信号機は日本の雪が多い地方と同じように縦型だ。
トラムが走る大通りへ出ても道路の脇には積もった雪がかき集められ,人も車もそれを避けるようにして通っている。雪が降り続いているが,傘を差している人はほとんどいない。
英雄広場は,1896年に万国博覧会が開かれた時に使用された場所で,要するに万博公園。ここにはハンガリー建国1000年を記念した,建国の英雄達の銅像で構成された記念碑が建っている。
中央の高い塔の上に乗っているのはブダペストを守る大天使ガブリエルで,この塔の左と右にはシンメトリーに各7人合計14人の英雄の像が並ぶ。西暦1000年のクリスマスに大天使ガブリエルがローマ法王の前に現れ,「イシュトヴァーンをキリスト教国の王として認めよ」と告げたという伝説があり,ガブリエルが掲げる二重の十字架は,イシュトヴァーンが聖職者であったと同時に国王として政治を司ったことを示しているという。
ガブリエルの塔の下には7人の騎馬像が立っており,これらはマジャル民族40万人をウラル山脈あたりからカルパチア盆地へと導いた7部族の長の姿。正面真ん中に立っているのがイシュトヴァーンの祖先でもある部族長の指導者アルパードで,騎馬民族出身のハンガリー人を表すため,彼らは馬に乗った姿を象られている。
また扇形列柱の間に並ぶ14人は,左から順にハンガリーの歴史を作った英雄たちが並んでおり,左端は初代国王イシュトヴァーン。イシュトヴァーンは,ヨーロッパ各地を荒らし回っていたマジャル人の過去に終止符を打ち,古来の宗教を捨ててキリスト教に改宗するため,自ら露営までしてキリスト教を布教しカルパチア盆地に新たな国を築いたハンガリーの父である。
このほか,イシュトヴァーンの隣には第9代国王の聖ラースロー,そしてモンゴル人の襲来からハンガリーを立ち直らせたベーラ4世,ハンガリーにルネサンス文化を取り入れたマーチャーシュ王,18世紀の自由戦争の指導者ラーコーツィ・フェレンツ2世,19世紀のハンガリー革命の指導者コシュート・ラヨシュなど,8人の王と6人の将軍や政治家たちが並んでいる。特に最後の右端のコシュートの像には,ハンガリー人の誇り高さを物語るエピソードがあり,興味深い。
この広場の建設が始まったのはオーストリア=ハンガリー二重帝国時代で,ハプスブルクの支配に徹底して反発したコシュートはハプスブルクによって国外に追放され,もともとこの14番目の位置にはハプスブルクの王フランツ・ヨーゼフの銅像が立っていた。ところが,コシュートが起こしたハンガリー革命から100年経った1948年,これを記念して,フランツ・ヨーゼフの銅像とコシュートの銅像が入れ替えられたのだ。
民族に誇りを持ち,民族の英雄を大切にする。今の日本には無縁のことのようで,何だか少し羨ましい。一人一人の銅像を近くでよく見てみたかったが,雪が深くて,とても近づくことはできなかった。
英雄広場の外側には,広場を挟んでシンメトリーに,右手には絵画館,左手には芸術博物館があり,どちらもコリント式列柱が並ぶギリシア風の建築。絵画館では主にハンガリー現代絵画や企画展が,芸術博物館にはハンガリー以外の国の芸術家の作品が展示されている。
広場の正面の大通りはアンドラーシ通りで鎖橋へ伸びており,広場の後ろには,英雄広場とこれらの美術館を挟むようにして市立公園が広がっている。ここには万博で展示されたミニチュアの城などが建っていて見学できるそうだが,今回は見学時間がとれなくて本当に残念だ。
今日の午前中だけでブダペストの主要観光地を制覇するという無謀かつ多忙なスケジュールをこなすべく,バスはペスト地区を通り抜け,ドナウ川を渡ってブダ側のゲッレールトの丘を目指す。ゲッレールトは,初代国王イシュトヴァーンの息子イムレの家庭教師としてイタリアから招かれた聖職者の名で,異教徒の反乱時に,葡萄の樽に詰められてこの丘の上からドナウ川に投げ込まれ,殉教したのだという。
ゲッレールトの丘の上には,シュロの葉を掲げた女神像が立っているが,これは第二次大戦後,ナチスからハンガリーを解放したソ連兵士のための慰霊碑として立てられたもの。ハンガリーが社会主義時代に別れを告げたとき,女神像の下にあったソ連兵士の像は除去されたが,女神だけは丘のシンボルとしてその後も残った。
ガイドさんの話を聞きながら車窓の景色を眺めていると,バスはペスト地区の中心部へと進んでいるようで,少しずつ街はにぎやかになっていく。道沿いの広場に何気なく銅像が立っていたりするのが,如何にもヨーロッパの街らしい。
外壁全体に彫刻が施された美しい建物が見えてきたと思ったら,オペラ座(国立歌劇場)だという。1884年に完成したこの建物は,ネオ・ルネサンス様式で世界有数のオペラ座の一つに挙げられている。パリやウィーンのオペラ座に比べ規模は若干小さいものの,内部装飾の豪華さ美しさはブダペストの方が美しいと評価する人も多いそうだ。
やがて,向こうに古いゴシック建築の国会議事堂が見えてくると,ガイドさんが「国会議員は300人以上いて,ハンガリーの人口にしては多すぎるくらい。国より自分の利益を考える人が多い」などと話してくれる。どこの国の国会も,国民から見れば同じ欠陥を抱えているのだろうか。
あちらこちらにはためいているハンガリーの旗は,3色の色がイタリアと同じで,イタリアが縦に並んでいるのに対し,横並び。赤は建国者の血の色を,白は平和を,緑はハンガリーの大地を表しているとのこと。
ゲッレールトの丘に一番近いエルジェーベット橋を渡ると,橋の上からブダ王宮と鎖橋がよく見える。
ドナウ川を渡ってブダ地区に入ると道が少し狭くなり,温泉の建物や民家の間を通り抜けながら,バスは丘の上へと上っていく。民家は,パラボラアンテナをいくつもつけている家が多く,アンテナは日本のアンテナより少し大きめだ。
やがて,美しい眺めで有名なゲッレールトの丘の要塞の近くの展望台でバスは停車。この要塞は,19世紀のコシュートの独立戦争の後,ハプスブルクがハンガリー人を監視するために建設したもので,第二次大戦中はドイツ軍がソ連との銃撃戦の時に使用した。
要塞のふもとにある展望台からほんのひとときブダベストの街を眺めるため,私たちはバスを降りる。
さきほどの英雄の丘でも雪で滑ったので,気を付けて一歩一歩踏みしめて歩くが,底がツルツルの靴を履いてきてしまったので歩きにくいことこの上なし。何度も転びそうになりながら,少し低い位置にある展望台へと降りていく。
ここからは,ドナウの真珠,ドナウの薔薇などと賞されるブダペストの街が一望でき,ブダペストで一番美しい眺めだとも言われているらしい。展望台には,日本の観光地でもよく見かける,コインで動く望遠鏡も備えられていた。
展望台の周囲を少し歩いてみたが,シーズンオフとあって出店はみんな骨組みだけ。夏にやってくれば,もっと活気があるのだろう。しかし,荘厳なゴシック建築が並ぶブダペストには,雪が舞うどんよりとした空がたまらなく似合うとも思う。中欧の文化は,この暗く寒い冬を無くして語ることはできないのではないだろうか。
ドナウ川に面した丘の中腹に聖ゲッレールトの像が立っているということだが,これを見ることはできなかった。
ゲッレールトの丘の展望台を後に,再びバスに乗ってブダ王宮の見学に向かう。王宮のある丘の上には,ブダ王宮,王宮劇場,マーチャーシュ教会,漁夫の砦,音楽歴史博物館,軍事歴史博物館が広い範囲に散らばっており,ブダ王宮内には,ハンガリー国立美術館,ブダペスト歴史博物館,国立セーチェニ図書館が入っている。
我々の団体観光でまともに見学するのは,この中で漁夫の砦とマーチャーシュ教会のみで,かなり残念。
相変わらず雪がちらついており,道を歩く人の多くは帽子をかぶって寒さを防いでいる。建物の窓が大きいのも,寒い地方の特徴だ。
やがてバスを降り,目の前にそびえる砦へ向かって上っていく。
階段の一番上にはアーチ型の門があって,アーチから向こうの広場の聖イシュトヴァーン騎馬像が見えるようになっている。アーチをくぐると,門の内側には三人の彫像が彫られていた。誰だろう?
アーチ門の向こうの広場に出ると,ドナウ川に面して二棟のとんがり屋根の塔を伴う白い回廊が構えていた。これが漁夫の砦なのだ。ここから全景を見ることはできないが,まるで広場の真ん中の聖イシュトヴァーン騎馬像と背後のマーチャーシュ教会を,ドナウ川から守っているようだ。
漁夫の砦は,ドナウ川を見下ろす丘陵の上に建つネオ・ロマネスク様式の回廊で,大小7つの塔を持つ。中世に王宮で開かれていたドナウ川の漁夫たちのギルドを守るための擁壁があったことから漁夫の砦と呼ばれているが,戦争に使われたことはない。現在の砦は1895年〜1902年にかけて建設されたものだ。
上ってみると,砦の上からはドナウ川とペスト地区がよく見える。
漁夫の砦を降りると,次は視野を覆い尽くすかような迫力で目の前にそびえるマーチャーシュ教会へと向かう。
盛期ゴシック様式の堂々たる建物は,イシュトヴァーン王によって1015年に建設された聖母マリアに捧げる教会が1242年のモンゴル侵入で破壊された跡地に,1255年からベーラ4世が北フランスのゴシック様式を取り入れた教会を新しく建設し,これをマーチャーシュ王が1479年に手を入れ80mの尖塔などを作って今の形にしたもの。戴冠式など,ハンガリー王家の公式行事に用いられていたカトリック教会だ。中でもハプスブルクのフランツ・ヨーゼフとエリザベートがハンガリーの国王・王妃として戴冠した場所として知られ,戴冠教会という異名も持つ。
一般にマーチャーシュ教会と呼ばれるが,正式名称は聖母マリア教会といい,中にはベーラ3世夫妻の石棺が安置されている。二重になった入り口部分の内側にも,隙なく装飾が施されていた。
教会内は写真撮影自由ということだが,薄暗いし巨大だし,そうそう撮れるものではない。少なくとも,写真撮影をしたいなら高感度フィルムと超広角は必須だろう。三脚を立ててもよいかどうかは聞くのを忘れた(^^;。
ステンドグラスを背にした主祭壇はネオゴシック様式で,向かって右手の聖十字架礼拝堂祭壇は,十字架を囲む金色の装飾が華やかだ。薔薇窓には星形のステンドグラスがはめ込まれている。
また右側のステンドグラスには,聖母マリアや聖マルギットなどの伝説が描かれていた。
向かって左手は,ネオゴシック様式の聖イムレ祭壇で,祭壇にはイムレの生涯が描かれている。イムレは 1031年に 24歳で没した初代国王聖イシュトヴァーンの息子で,中央がイムレ像だ。
聖イムレ祭壇のある側を後ろへ歩いていくと,後ろ正面にも薔薇窓があって,壁画の中に美しいステンドグラスが埋め込まれていた。
入り口側の塔の下には聖母マリアに捧げられたという小さな礼拝堂,ロレット礼拝堂があって,ここには赤い大理石のマリア像がある。このマリア像は,1686年のトルコ占領時に一度破壊され,その後1700年頃から再制作されたとのこと。
このロレット礼拝堂の外側の壁には,マーチャーシュ王の紋章が描かれているが,上の小さな丸枠の中の横顔がマーチャーシュ王で,紋章の両側に剣を持って立つのはマーチャーシュ王を保護する黒装束の騎士。“黒軍”と呼ばれたマーチャーシュ王の常備軍は,火器と戦車の使用に優れ,2万人以上の傭兵を持つ強力な軍だったという。
これと同じ紋章は,ブダペストの街のあちらこちらで目についた。
マーチャーシュ教会を出ると,少し歩いて近くの土産物屋へ。周囲の店々のショウ・ウィンドウのディスプレイが可愛らしく,魔女の看板などもヨーロッパ風で珍しく,私は思わずキョロキョロ。すっかり集団から後れてしまって,雪で滑りそうになりながら慌てて皆を追いかけた。
さて,案内された店は,ハンガリー土産に欠かせない雑貨店と食料品店。
まず入った雑貨店には,レースの服やクロス,食器やイースターエッグなどの民芸品が並んでいたが,欲しい物は何もなし。残念ながら,ハンガリーのデザインとは今ひとつ感性が合わない気がした。
食料品店の方は,トカイワインにフォアグラ,生ハム,クラッカーにジャムなど,買おうと思えばいくらでも買って帰れそうなものばかり。たった1日しかないブダペストの時間を有効に過ごすためにも,欲しい物はここで買っておくに限る。
フランスの太陽王ルイ14世に「ワインの王様にして王様のワイン」と言わしめたトカイ地方の貴腐ワイン,トカイアスーに,ガチョウの肝臓フォアグラ。これらのハンガリー名物がどんな食品なのかもよく知らなかったが,私たちは真剣に買って帰るものを探し始めた。
真剣な客には店の人も真剣になってくれる。これはどこの国に行っても通じる現象で,やがて店のお姉さんがやってきて,ワインの価格やお勧め品などを英語で熱心に説明してくれた。
この日の夕食は各自でとることになっていたので,私たちはハンガリーらしい夕食をここで調達することに決め,トカイワイン(1980Ft)にフォアグラの缶詰(2980Ft,450Ft,330Ft),生ハム(120Ft),そしてフォアグラをぬって食べるのによいという甘くないラスク(275Ft)を,このお姉さんに選んでもらった。
私: これ,今夜の夕食にするの。
お姉さん: いい夕食ね!
しかしカード精算に時間がかかり,皆さんを5分くらい寒い外で待たせてしまった。ハンガリーはカード社会ではないのだろうか?
再びマーチャーシュ教会の方へ引き返し,道路に佇む騎馬像の前を通って徒歩でブダ王宮に向かう。道は相変わらず路駐の車だらけで,雪が積もって固まっており,かなり歩きにくい。
王宮劇場の横を通り抜けると,右側にずらりとハンガリー国旗が並んだ広い石畳が開け,目の前に王宮の特徴ある丸い屋根が見えてきた。
しかし,残念ながら,ここは通り過ぎるだけ。まずはルートヴィヒ博物館(?)の横を通って王宮の丘の土手からドナウ川と鎖橋,そして鎖橋の向こうに見える聖イシュトヴァーン大聖堂を眺め,引き返す。このあたりで撮ったアルファベットの年号を書いた建物の写真が残っているが,これは何の建物だったのだろう?
王宮へ入る鉄柵の門の上には,黒い鳥の像が乗っていて表にも裏にも兵士の像(?)がついていた。この鳥はトゥルルという伝説の怪鳥で,“建国の父アルパードを産んだ鳥”と言い伝えられている。
ブダ王宮は13世紀に創建されたが戦火で壊され,現在の建物は14世紀にベーラ4世が建設した砦をジギスムント王が王宮に改築したものが基礎になっているという。
その後,マーチャーシュ王(1458-1490)の時代にイタリアから呼び寄せた彫刻家たちによってゴシック様式からルネサンス様式へと変貌を遂げたが,1686年のハプスブルクのブダ城攻略で破壊されバロック様式で新築される。18世紀,マリア・テレジアの時代に増築拡張されるものの,19世紀半ばの暴動で再び焼失。オーストリア=ハンガリー二重帝国時代にルネサンス様式で再建されるが,20世紀に入ると2度の大戦で破壊された。中庭などが形成されて今の形に至ったのは第二次大戦後のことで,長い時をかけて育てられてきた王宮だ。
鉄門を通ってしばらく歩くとマーチャーシュの噴水が見えてくるが,凍り付いていて噴水はあがっていない。この噴水は1904年に作られたもので,若き日のマーチャーシュ王の狩りをする姿だという。
私たちは大急ぎでライオンゲートを通ってハンガリー国立美術館と国立セーチェニ図書館に囲まれた中庭に入り,中庭を通り過ぎると,ブダペスト歴史博物館を抜けて王宮を出る。
中庭へ入るためのアーチ門=ライオンゲートに立っているライオン像は1902年に作られたもので,中庭は,ライオンに守られているためライオンの中庭と呼ぶそうだ。
歴史博物館には発掘品などハンガリー2000年の歴史を語る品々が展示されている。王宮の外へ向かう通路にも一部の歴史的遺物が展示されていたが,急いで通り過ぎなければならずほとんど見ることはできなかった。
王宮を出ると,鎖橋を渡ってペスト側へ戻り,聖イシュトヴァーン大聖堂へ向かう。鎖橋からは,行きに渡ったエルジェーベット橋,そしてゲッレールトの丘の女神像と要塞がよく見えた。対岸に渡ると王宮の景色も美しい。
鎖橋は1849年に完成したブダとペストを結ぶ橋で,セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の呼びかけによって建設された。セーチェーニ伯爵は,石橋を建設するために貴族たちに呼びかけ資金を作り,自らも多額の寄付を投じ,橋の完成に寄与した立役者だ。
設計はイギリス人のアダム・クラークで,長さ375m,幅16m。夜はライトアップされてドナウの夜景を彩る主役となる。この電球を連ねた照明が鎖のように見えるため“鎖橋”の愛称が生まれたと言われるが,吊り橋の一部に鎖が使われており,この鎖が由来になったとの説もあるようだ。
ブダペストは,もともとドナウ川を挟んでブダ地区とペスト地区に分かれており,最初の橋は,1769年にかけられた。けれど恒久的な橋とは言えず,19世紀になってしっかりした架け橋が提唱されることになったのだった。橋が完成した後の1873年,オーストリア・ハンガリー二重帝国時代にブダとペストは合併し,ブダペストとなった。この後ブダペストの街は急速に発展を遂げ,千年記の1896年にはヨーロッパ大陸最初の地下鉄も誕生した。
鎖橋の両端には三越百貨店のライオンとそっくりなライオン像(三越のライオンはロンドンのトラファルガー広場のライオンがモデルらしいが?)が立っていて,ツアーで訪れた日本人観光客は,大抵ガイドさんから「三越のライオン」の話をされるようだ。
橋のブダ側のたもとのロータリーを越えたところには,王宮の丘へ上るケーブルカーの線路があるが,冬季は動いていなかった。
鎖橋を渡るとイシュトヴァーン大聖堂はすぐだ。美しい雪の街を眺めながら銀行の横を通り,少し離れたところでバスは停車。近くまでは行けないらしい。
聖イシュトヴァーン大聖堂はブダペスト最大の教会で,幅55m,長さ86m,ドームの高さ96m。比較的新しい教会で,1851年に建設が始まり 1905年に完成し,中にはハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世の右手のミイラが保管されていることで有名だ。ドームの高さの96mは,イシュトヴァーンの先祖アルパードがカルパチア盆地に入った896年にちなんでいる。
私たちが教会の前に着くと丁度正午になって,教会の鐘が鳴り始めた。カンカンカンカン…随分と速い。教会の鐘の音って,仏教寺院のゴーンという荘厳な響きとは全く趣が異なっている。
正面の階段を上っていくと,まずは入り口に掲げられた聖イシュトヴァーンの胸像が迎えてくれ,その上にはキリスト復活を描いたモザイクが雪の中で黄金に輝いていた。イシュトヴァーンがハンガリーの人たちにどれほど親しまれ尊敬されているかをひしひしと感じる。
中に入ると,大々的に工事中で有機溶剤の匂いがひどい。旅行で胃腸が弱っていたのでかなりつらく,吐き気を押さえるのがやっと。私はほとんど見学どころではなかった。シーズンオフの観光ということもあるのだろうが,それにしてもミサを行う信者は平気なのだろうか。
主祭壇には黄金に輝くイシュトヴァーンの像が立っており,大ドームとは別にこの上にもドームがあって,祭壇は外光に照らされるように作られている。
大ドームの下には,イシュトヴァーンの一人息子だったイムレと,その家庭教師ゲッレールトの石像。この近くには,王位継承者として育てた息子のイムレを亡くしたイシュトヴァーンが,行き先を失ったハンガリーの王冠を聖母マリアに託している姿を描いた大きな絵が掲げられている。イシュトヴァーンは,マジャル人が生き残るにはキリスト教に改宗するしかないと判断しイムレを教育してきたのに,イムレは若くして事故死してしまったのだ。これ以降,ハンガリーでは聖母マリアが最高位の守護聖人となり,ローマ教皇から贈られたこの王冠も誰の手に渡ることなく,現在は国会議事堂に展示されているとのこと。ちなみに,多くの歴史家が「ハンガリーという国が存在しているのはキリスト教に改宗したためだ」と述べているそうで,イシュトヴァーンの並はずれた先見の明が偲ばれる。
「1000年前のハンガリーの建国の父」と呼ばれて敬愛されるこの聖イシュトヴァーン。彼の神聖な聖遺物である手首のミイラは主祭壇の後ろの“聖なる右手の礼拝堂”に納めれており,見学者がコインを入れると,少しの間だけ照明が灯って拝めるようになっている。しかし,気分が悪く集中力が欠けていたせいか,残念ながら私にはどれが右手のミイラなのだかわからなかった。
祭壇の周囲のステンドグラスはとても美しく,貧しい子どもたちを助けることに生涯を捧げたハンガリー王女,聖エリーザベト(1207-1231,アンドラーシュ2世王の娘)や聖イシュトヴァーンなどの聖人たちが象られていた。
この教会は塔にも上れるようだが,勿論そんな暇はない。
雪の中滑らぬように気を付けて大聖堂の裏へ回り,後ろ姿とは思えない大聖堂の堂々たる姿を眺め,バスに乗った。
聖イシュトヴァーン大聖堂を出ると,昼食のため,英雄広場の近くまで移動。裏通りでバスを降り,雪に降られながらレストランへと歩く。ガイドさん曰く,私たちが食べるのは,ハンガリー人は日曜日にしか食べない高級料理だという。
最初に出てきたのは,ハンガリーでもっとも有名な料理とも言われるグヤーシュというシチュー。
ハンガリー特産のパプリカで牛肉と野菜を煮込んだ辛めのシチューで,遊牧民族だったハンガリー人が草原で煮込んで食べていた料理が由来という。これが本当に美味しくて,パプリカの甘辛さと牛肉の旨みが生み出す得も言われぬハーモニーに,飲み干してしまうのに勇気が必要になるほどだった。
メインディッシュはチキンで,パサパサの米とフライドポテトの盛り合わせ。西欧諸国のメインディッシュといえば,みんなくどくて多いという印象を持っていたが,意外にあっさりした味付けで口に合い,量も丁度よい。
しかし,デザートの量の多さの方は give up! 甘いリキュールをたっぷり吸ったスポンジにふんだんな生クリーム,そしてチョコレート。これがハンガリーのデザート,グンデル・パラチンタだろうか? ラム酒のきいたチョコレートソースをかけたクレープだというから,ちょっと違う気もする。とにかくあまりの甘さ! 耐えられず,頼むつもりのなかった珈琲を追加注文することにした。
出てきたのはデミタスに入ったエスプレッソ。甘さに参っていたこともあり,とても美味しくいただいた。中欧諸国では,この後も珈琲といえばエスプレッソが出てくることが多く,ちょっとエスプレッソのファンになる。
昼食を終えると,午後から翌朝までは自由行動。
バスでヴァーツィ通り近くの繁華街まで連れて行ってもらい,そこで解散。ガイドさんともお別れだ。我々は早速団体を離れて行動開始。
ヴァーツィ通りはペスト側にあるブダペスト一の繁華街で,鎖橋とエルジェーベット橋の間をドナウ川と平行に走る道。ブランド品の店やヘラルド食器の店,ワインの店,ファーストフード,レストランなど様々な店が建ち並び,車通りも多く,にぎやかで活気がある。観光客が多いためか,英語が通じる店も比較的多い。ヴァーツィ通りに向かって歩いていると,途中にペットショップもあった。もちろん,季節柄,華やかなバレンタインの飾りもあちこちに見られる。
何もかも珍しくて仕方がない私は,マンホールやゴミ箱,ゴミ捨て場,ポスト,広告塔,電話ボックスなど,その辺りに見えるものを次から次へとパシパシ撮りながら歩いた。そこいらに何気なく建っているビルも,いちいち彫刻が施されていたり,時計塔が立っていたりして美しい。時々店にも入ってみたが,あまり買いたい物は見つからない。そもそも20ユーロ相当のフォリントしか持っていないので,どちらにしても買い物は二の次だ。
雪は絶えることなく降り続き,裏通りをのぞくと道も車も雪をかぶっていて,雪を集めて廃棄する作業をしている人が何人も歩いている。
煉瓦がむき出しになった建物の壁を見て,地震がない国なんだなぁ,などと思う。
エルジェーベット橋の近く,観光客向けではなく現地の人が買い物をしているスーパーマーケットに入ってみる。ビルの1階にさりげなく入っているスーパーマーケットなので,中から袋を持った買い物客が出てくるのを見なかったら,見逃していたかもしれない。
スーパーマーケットは入り口と出口が厳格に分かれていて,出口からは入れない。入り口を入ると店内で使う折りたたみ式の買い物籠が積み上げてあって,そこで買い物籠を取ってもう一つの扉を通り,店内へ入るという仕組み。二つ目の扉の前には店の人が立っていて,入り口から出る人がいないか見張っている。
勝手がわからず,店内に入った後に買い物籠が無いことに気付いた私が戻ろうとすると,扉の前の店の人に阻止されてしまった。籠が欲しいのだと訴えると,それでも客を入り口から出すわけにはいかないらしく,店の人が籠を取ってきてくれた。
中はそんなに広くないが,品物の種類は意外と多く,棚にむき出しで置いてあるパン売り場,やたらと種類豊富なソーセージ売り場,好みの野菜をバイキングできる惣菜売り場などが面白い。チェックの近くに売り出し製品が置いてあるのは日本と同じ?
誰にお土産ということもなく,ハンガリー製ビール(149Ft),ナッツ(299Ft)と乾燥フルーツ(369Ft),インスタント珈琲(789Ft)を買って店を出た。
ワインも沢山売っていて異常に安かったが,そんなに持てないし飲めないしで諦めるほかなく,ちょっと残念。
スーパーマーケットを出ると,さらに南へ下って,自由橋のたもとの中央市場へ。この自由橋という橋は,二重帝国時代に建設され元々“フランツ・ヨーゼフ橋”と命名されていたが,ハプスブルクを嫌った市民によって“自由橋”に改名された歴史を持つという。
市場の前にはトラムの駅があってにぎやかだ。
中央市場の中は,地下が魚市場,1階が肉・野菜,2階が雑貨やレースなどの民芸品という構成で,駅舎を改造して作った建物は風情があり,見て楽しく買って楽しく,店の人は英語を話すし観光客必須の場所だ。イギリスのサッチャー元首相もここでパプリカを買ったらしい。
中に入ると,如何にも駅だったという雰囲気が漂っている。人もたくさんいて活気がある。1階の食料品売り場にはハムやチーズ,野菜や果物が並んでいて,数日間フリーで滞在するならよい買い物場所になりそうだった。乾燥して吊されたパプリカは,まるでタカノツメのよう。
明日はハンガリーを出る私たち,特に食料品を買うあてもなく一通り回って2階へ上ると,特産品のレース,マトリョーシカ,シークレットボックスなど同じようなものを並べた店ばかり。レースが欲しかったが,やはり趣味に合う品物が見つからず,ここでも購入を断念。それにしても,ロシアの民芸品マトリョーシカが多いのは何故だろう?
私たちが探していたのは毛皮の帽子で,中央市場で見つけた帽子屋は一件。よい帽子を売っていて値段を聞いたり試着させてもらったりしたが,けっこう高いし,ここでは買わず,もう少し街で様子を見てみることにした。
中央市場を出て,帽子屋を探しつつ,再びヴァーツィ通り方面へ向かって歩き始める。
店々のショウウィンドウはセンス良く飾り付けられていて,子供服の店が多く目についた。
カメラ屋さんのウィンドウには,ロシア製のカメラ?や美しいオペラグラスが飾られている。こんなオペラグラスを片手にゴシック建築が立ち並ぶ中欧の街のオペラ座でオペラを見られたら,どんなに豊かな気持ちがするだろう?
歩いていると美しい食器が並んだ店があったので,ぶらりと入って店内を散策すると,エスプレッソサイズの彩りが美しいカップ&ソーサー (280Ft)を見つけ,何となく購入。
だが帽子屋はなかなか見つからず,やがて少し暗くなってきた。中央市場で買うべきだっただろうかと後悔し始めた頃,ようやく発見!
早速ドアを押すが,鍵がかかっているようだ。小さな店の中は電気がついているのに,人の姿は全くない。だが,もう暗くなりかけている上に,ずっと探し回ってやっと見つけた帽子専門店なのだ。諦めるわけにはいかない。困った私は店のガラス戸をドンドン叩いて店の人を呼んでみた。すると,ありがたいことに店のおじさんが気がついて,奥から出てきてドアを開けてくれた!
帽子屋のおじさんは,私を見るなり赤いコートとそっくりな赤いお洒落な帽子を出してきて,私の頭にかぶせてくれた。確かに服にも私にもよく似合う…,だが,目的のものを買わなければ!
欲しかったのは,ロシア人がかぶっているような,ふかふかの毛皮の帽子。何種類かあったが,色と手触りの気に入ったものを一つ見つけた。値段は中央市場の帽子屋とほとんど同じだったので,きっとこれが相場で,どちらもキチンとした品物をおいている店なのだろう。ブダペストの思い出と,これからの旅を暖かく過ごすために,この毛皮の帽子を1つ,この店で買うことにした。
値段は33500フォリント(約1万7千円)で,当然ながら手持ちの20ユーロ相当のフォリントではぜんぜん足りないし,クレジットカードも使えないという。
どうしようかと思っていると,店のおじさんは,USドルでもユーロでも日本円でもよいと言ってくれた。それならと思ってUSドルで支払うことにしたが,これも若干足りず,お互い得意とは言えない英語を使いながら支払い交渉。これもダメ,あれもダメという面倒な私たちに,店のおじさんは嫌な顔ひとつせずに,一生懸命計算してくれた。
結局,1500フォリント + 100ドル + 49ユーロという,3種類の通貨を混ぜてのアクロバティックな買い物になったが,帽子は私たちのものになり,おじさんは売り上げをあげることができた。ほんと,おじさん,ありがとう!
帽子はモンゴル・モルモット?の毛皮だそうで,雪の街によく似合い,耳当てをおろすととても暖かい。楽しい買い物に大満足の私たちは,おじさんに「Good bye」を言い,店を出た。
さて,楽しい買い物のおかげで残る現地通貨が75フォリント(約40円)となった私たち。たったこれだけのお金では,もうトラムに乗ることすらできない。ホテルまでの3kmほど,雪道を歩いて帰ることが必至となった。時刻は既に16時をまわっており,かなり冷えてきている。治安も心配だし,歩きながらホテルへ向かうことにした。
暗くなると鎖橋がライトアップされるので,私たちはドナウ川沿いへ出て,鎖橋を見ながらひたすら歩く。繁華街に近くドナウ川が見渡せる一等地には,マリオットやハイアットなど高級ホテルが建ち並び,トラムの駅があり,ビルには航空会社などが入っている。建物の装飾もお洒落だ。
対岸に目を移すと,女神像が立つゲッレールトの丘,ブダ王宮やマーチャーシュ教会など午前中の思い出の地がよく見える。夏に訪れてドナウ川クルーズに参加すれば,きっとさぞかし美しいことだろう!
しかし,鎖橋は17時を過ぎてもなかなかライトアップされず,ドナウ川を見下ろすように堂々と建っている国会議事堂までやってきた。
バロック,ルネサンス,ゴシックなどを取り入れたこの建物は世界一美しい国会議事堂とも言われ,1884年〜1904年まで20年の年月をかけて建設されたものだ。外観はネオ・ゴシック,中央の卵形円蓋はルネサンス,突き出た尖塔はゴシックで,部屋数は691室にのぼる。設計はシュティンドル・イムレで,彼の姿は南側の待合室の柱に掘られている。ガイドツアーに参加すれば,中を見学できるそうだ。
この国会議事堂の建設は,1896年の建国千年祭に向けて建てられたものだそうだが,内部の絢爛豪華さは世界でも類を見ないもので,予算の倹約を一切行わず,建物全体で40kgの22金を使用したとか。オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の当時,ハプスブルクに対してハンガリーの力を見せつける必要もあったらしい。
周囲を歩いていくと,正面玄関にはハンガリーの旗がひらめき,そこから通りが何本か放射状に伸びている。そして,国会議事堂の向かいに建つ彫刻と銅像で装飾された見事な民俗学博物館との間にはコシュート・ラヨシュ広場があって,ここにはハンガリーで愛される二人の英雄,18世紀のハンガリー独立戦争の指導者ラーコーツィ・フェレンツと,19世紀のハンガリー革命の指導者コシュート・ラヨシュの像が立っているそうだ。
国会議事堂の北側で再びドナウ川沿いの道に出ると,鎖橋の一つ北にかかるマルギット橋や辺りの歩道に街灯が灯り始めた。道は凍りかけていてかなり危険。繁華街を離れ景色は少しずつ寂しくなり,すっかり日も暮れ歩行者も減ってきた頃,私たちはようやくマルギット橋にたどり着いた。もちろん鎖橋のライトアップも始まっている。
私たちの目的は,マルギット橋の上から鎖橋のかかるドナウ川の夜景を撮ること。幸いにして,橋は歩いて渡れるようだ。
かなり疲れた足を引きずりながら,私たちはマルギット橋の真ん中近くまで歩き,歩道に三脚を立てた。ライトアップされた国会議事堂と鎖橋と王宮の夜景は見事と言うほか無い。さすが,“ドナウの真珠”ブダペストだ。
しかし,露出時間が長いというのに,交通量が多いためバスやトラムが次々と通って橋は揺れ通し。地熱がない橋の上は既に氷点下で,手もかじかんでうまく動かない。過酷な撮影となった。10枚ほど撮って,うまく撮れていることを祈りながら橋を去る。ブダペストの夜景よ,さようなら!
ドナウの夜景さえ撮れれば,後はまっすぐホテルへ帰るだけ。
この半日でやりたかったこと全てを達成した満足感で気持ちも軽く歩き始めた私たちだったが,この先が意外と遠かった!
トカイ・ワインを2本に35mm一眼レフとデジカメ,大きなズームレンズの着いた35mm一眼レフ,三脚,ビール,お土産に買ったコーヒーカップにガイドブック等々を持っていて,決して軽くない。脚はパンパンに腫れ上がり,重いコートと荷物のために肩もこって痛くなってきたが,ひたすら歩くほかどうしようもない…。
幸いにして,街一番の繁華街から離れても商店街は続いていたので,店や建物の風景を楽しんで気を紛らわせる。マクドナルドがあったが,さすがブダペストのマクドナルドというべきか,建物が日本のとはぜんぜん違う。メニューには似たようなものが並んでいるのだが。
台所用品専門店を見つけたので入ってみたが,75フォリントではスプーン1本買えない。日本では見たことのない可愛いキッチン雑貨もあったのに,ちょっと残念。エスプレッソメーカーが日本の半額くらいだったのでひかれたが,まさか買って帰るわけにもいかない。
18時を過ぎると閉店になる店が多く,この店を出た後はもうどこにも入れなかった。あとは,照明のついているショウウィンドウを見ながら歩くだけ。時々見かけるアムステル・ビールの看板が,ちょっと気になった。
重い荷物を抱えて4時間半くらい歩きっぱなしだったため,やっとホテルが見えてきたときは,本当に嬉しかった。
もう限界!
あんなに歩き回ったというのに,昼食が多かったせいかあまり空腹ではなかったため,先にお風呂に入り,その後,マーチャーシュ教会の近くの店で買ってきたハムを1枚,ラスクを2枚,そして街のスーパーで買ってきたビール1本を二人で分けて夕食にする。ツアーの食事は多くて食べすぎになるので,このくらいで丁度良いのかも。
部屋には今日見てきたばかりの王宮と鎖橋の絵がかかっていて,それを見ながらブダペストの思い出に浸りつつ,変わった夕食を味わった。
明日はウィーンへ移動。
お土産のコーヒーカップなどが割れないように,スキポール空港でもらった FINANCIAL TIMES で包み直したりして荷造りをし,22時半頃には就寝した。