中欧旅行記 ★ 2つの古都,エステルゴムとブラチスラバ

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参考文献

さらばブダペスト (2003-02-12)

706号室ベランダからの風景

 時差のせいか興奮のせいか午前4時半には目が覚めて,それ以来どうがんばっても眠れなかった。諦めて5時に起床し,ゆっくり準備し,6時半に朝食へ。

 朝食は何から何まで昨日と全く同じ内容だったが,今日こそ食べようと思っていたパイだけが無くて,とっても残念(^^;。そして昨日の朝は気付かなかったが,何と,昨日街のスーパーで買ってきたインスタント珈琲と同じものが食堂に置いてあるのを発見! ホテルにおいてあるってことは,まぁまぁ上等な珈琲なんだろうな? ちょっと嬉しい。
 食堂に掲げられた黒板には天気と今日のモットーが書かれており,"SNOWY" "-2℃"は昨日と同じ。晴れていた気がするのだが,まだ書き直していないのか? 今日のモットーは,"TIME IS MONEY" だそうだが,みんなそんなにテキパキと仕事をしているような気はしない。

 部屋に戻って窓の外を眺めると,昨日の雪とは打って変わった快晴で,朝日に照らし出されたビルが青空に映えている。あまりに美しかったので,寒いベランダへ出て,2泊した部屋からの最後の風景をカメラに納めた。ブダペストのこの部屋が,この旅を通して一番景色の美しい部屋となったのだが,この時そんなことは知る由も無し。

 清掃のサインなど部屋の思い出を撮った後,少し休んで7時55分,玄関へ。毛皮の帽子買い物はツアーの皆様に受けたようだった。

ドナウベント

 8時にホテルを出発し,スロバキアの首都ブラチスラバへ向かう。道のりは意外に長く,途中,トイレ休憩などを入れて5時間だ。もちろん貴重な旅の5時間もの間ぼんやり過ごすわけにはいかないので,鬼のように?車窓写真を撮影して過ごすことにする。

エステルゴム郊外

 大きな団地の横を通り,ドナウ川を渡る郊外列車の線路が見えてきた。市外からブダペストへ通勤する人たちは,こんな電車に乗るのだそうだ。通りに公衆電話を見つけたが,"malav"と書いてあった。アムステルダムからブダペストまでのフライトでお世話になったエアラインは "MALEV"ハンガリー航空だったっけ。ちょっとスペルが違うけど,どういう意味なのかな?
 通勤時間帯のためか交通量が多いが,可愛らしい店の写真などを撮っているうちにバスは快適に走り,すぐにブダペストを抜けてしまった。

 郊外に出ると,工事現場?遺跡などを通り過ぎ,ブダペストの街の中ではビルばかり見てきたが,屋根裏部屋に窓の着いた普通の民家個人商店なども増えてくる。
 雪の平原を走り抜け,バスは再びドナウ川に出会い,川沿いの並木道を走り出した。私たちの行程と共に,ドナウ川の景色は続く続く続く続く。今回の旅は,ブダペスト,ブラチスラバ,ウィーンと,オーストリアを出るまでずっとドナウ川と一緒なのだ。

 ドナウ川はブダペストの北25kmほどのところで90度曲がっており,このあたりはドナウベントと呼ばれている。“ベント”とは,英語の bend と似ていることからも分かるように“曲がったところ”という意味で,ハンガリーとスロバキアとの国境に沿って西から東へ流れていた川が,ここでブダペストのある南へ向かう。防衛拠点として重要なこの地域は,ハンガリーの建国を語るに欠かせない。
 ハンガリーの旧都エステルゴムは,この曲がり角にある最初の街だ。

 やがて小さな町に入って道が狭くなり,道の脇にレストハウス民家などが見えてきた。エステルゴムの街へ入ったのだ。

エステルゴムと大聖堂

エステルゴムの大聖堂

 エステルゴムは,ハンガリー北部のドナウ川右岸にある都市で,川を挟んでスロバキア国境に接している。ローマ帝国時代から栄えた町で,マルクス・アウレリウスもここの城を利用したという。
 マジャル人は9世紀にこの地を征服すると,10世紀,アルパードの曾孫に当たるゲーザ公が王宮を築いて拠点とした。ハンガリー初代国王イシュトヴァーンはゲーザ公の息子で,ここで生まれている。ハンガリーが存続するためにはキリスト教に改宗して西ヨーロッパに所属する必要があると考えたゲーザ公は,チェコから修道士(プラハ大司教の聖アダルベルト)を招いて息子のヴァイクにキリスト教教育を施し,その名をイシュトヴァーンと改めたのだ。

 ゲーザ公が996年に亡くなると,イシュトヴァーンが後を継いで首長となり,1000年に神聖ローマ帝国オットー3世の同意を得て初代ハンガリー王イシュトヴァーン1世として即位した。そしてエステルゴムで,ローマ教皇から贈られた王冠による戴冠式を行った。ここにハンガリー王国の歴史が始まったのだ。イシュトヴァーン1世の時代には大司教座もエステルゴムに置かれ,名実共にこの街は,ハンガリーの都だった。ただし,イシュトヴァーンを除く全てのハンガリー王は,アルパードが初めてカルパチア盆地にたどりついた場所とされるセーケシュフェヘールヴァールで戴冠しているとのこと。
 イシュトヴァーン1世が聖堂を建てた丘の上の跡地には,1869年に建てられた大聖堂があり,今でもハンガリーのカトリック教会の総本山となっている。

 一行はエステルゴムの大聖堂でトイレ休憩を予定しており,まずは大聖堂の駐車場へ。しかし,シーズンオフとあって,売店は全て閉鎖,トイレも開いていない。とりあえず観光を済ませ,トイレは他で探すことに。
 売店が閉まっているのは寂しいが,他の観光客がほとんどいないのはオフシーズンの恵みかも?

エステルゴムのドナウ川

 駐車場から続く階段を上っていくと,まずはイシュトヴァーンの銅像が迎えてくれる。大聖堂は,昨日の聖イシュトヴァーン大聖堂より巨大で,ハンガリー最大の大聖堂だ。建物は縦108m,幅40mで,ドームは直径53.5m,高さ100m。大聖堂の前にも立派なイシュトヴァーン像があり,ドームの上には十字架が佇んでエステルゴムの町を守っているかのよう。自由に入って撮影することができたが,大聖堂内には外光がふんだんに取り入れられているため,ブダペストの聖イシュトヴァーン大聖堂よりずっと明るく,絵画彫刻パイプオルガンなどがよく見える
 ブダペストの聖イシュトヴァーン大聖堂のものと同じ,息子のイムレを失ったイシュトヴァーンが聖母マリアに王冠を託す絵が,ここにもかけられている。

 大聖堂の横を通り抜けると,その後ろにはドナウ川が流れていて,対岸にはスロバキアの町広がっていた。橋がかかっているのが見えるが,この橋は第二次大戦で壊され最近再建されたばかりだという。エステルゴム側にはゴシック建築の建物が建っている。キリスト教博物館だろうか?

 大聖堂の隣にはゲーザ公が建てた王宮の跡があり,ここは王宮博物館となっている。11世紀の石柱や壁,13世紀の壁画などが見られるとのことだ。この王宮は12世紀のベーラ3世の時代に現存の遺跡の形となり,13世紀,モンゴル人の襲撃によってベーラ4世が王宮をブダに移した時,その歴史を終えた。

 スロバキアの町を見ていよいよ国境越えが近づいたと思いながら戻ったが,私たちが越える国境はまだまだ遠かったのだった。

ガソリンスタンド

ガソリンスタンド

 大聖堂のトイレが閉まっていたため,運転手さんがトイレを借りる場所を探してくれることになった。こちらの運転手さんは,日本の観光バスの運転手さんとは違い,清掃からメンテナンスまで,自分の車のことは全て自分で面倒を見るのだそうだ。バスの中でミネラルウォーターを売ってくれるし,トイレを探すのも仕事なのだろう。

 連れて行かれたのは,大聖堂からそう遠くないガソリンスタンド。ガソリンスタンドでトイレを貸してもらえるのは日本と同じということか。
 トイレはガソリンスタンドの後ろ側にあり,添乗員さんが鍵を借りてきて開けてくれる。男性用・女性用と別々にあって,意外と広く美しい。…とは言ってもガソリンスタンドのトイレなので,10人以上の女性が順番に用事を済ませるにはかなり時間がかかる。待っている間はガソリンスタンドの探索だ。

 燃料の種類は4種類,アメリカと同じようにガソリンはセルフで入れるらしい。
 燃料タンク危険物置き場,そしてプロパンガス売り場 ガソリンスタンドの後ろには Shopがあり,ちょっとした土産物や日用品が売られている。
 ふり返ると,ガソリンスタンドの後ろには緩やかな丘が広がっており,丘の上に建っている民家の煙突から煙が立ち上っているのが見えた。

ハンガリー最後の風景

ハンガリーの街

 バスはずっと一般道を通ってブラチスラバを目指していたが,ここへ来て,運転手さんの判断で高速道路へ乗ることになった。ヨーロッパの高速道路は無料なので,予算の心配などせずに必要なときに乗れるのだ。素晴らしい。さっさと高速道路に乗ってスロバキアへ行っておくれ。

 だが,スロバキアどころか,高速道路すらまだまだ遠い先だったのだ。高速道路のアナウンスからだいぶ走ったのに,バスはいつまでも一般道を走り続ける。そして,いつのまにか高速道路とはほど遠い街の風景になってきた
 開けた道路沿いには,銀行パソコンショップ一般住宅お墓電気屋などが立ち並ぶ。もちろん教会も建っており,少し大きめの家には煙突が何本も立っている。寒い国ならではの光景だろう。 街の中心部を離れていくと,農家の納屋駅(?)大きなプラント工場などが広がっていく。道路の建設?鉄道工事?など,工事現場も何カ所か見かけたが,やがて家も途切れはじめ,バスはまた郊外の道路を走り始めた

 ほどなく前方に黄色い時計塔が見えてきて,バスはスズキ自動車の看板の前のガソリンスタンドで止まった。ブダペストでもそうだったが,スズキ,トヨタ,SONYなどの日本企業の看板は珍しくない。ここはスズキの販売店のようだった。
 運転手さんは,バスを降りてガソリンスタンドへ。高速道路に乗るためのチケットを手に入れるとか。あれ?料金は無料だったのでは? よくわからないが,とにかくこのガソリンスタンドを出るとすぐに高速道路に入ったが,料金所などは見かけなかった。

国境

 私たちが通過するハンガリーとスロバキアの国境は,高速道路の途中。国境が近づくと,高速道路には国境を知らせる標識が繰り返し表示され,嫌でも意識することになる。添乗員さんからは写真撮影を控えるなどの注意点や出入国の流れが説明され,各自パスポートの準備。
 クチバシが白いカラスの集団に見守られながら,私たちの乗ったバスはハンガリーの出国ゲートへと入っていった。形態は,日本の高速道路にあるバリアとそっくり。バスが止まると,ハンガリーの出国審査官が車内に乗り込み,一人一人の顔写真を確認しながらパスポートを集めて降りていく。審査が行われている間はトイレ休憩だ。

 特にトイレに用事はなかったが,せっかくなのでバスの外へ出てみる。特に見るべき物は何もなく,寒いだけ。写真も撮ってはいけないし,諦めてバスの中へ戻って審査官の帰りを待つ。まもなく返ってきたパスポートには,車のマークのハンガリー出国スタンプが押してあった。入国は空港だったので飛行機のマーク。鉄道だと電車のマークのスタンプが押されるらしいので,またの機会があれば是非とも電車で国境越えをしてみたい。

 ハンガリーを出国すると,スロバキア入国のゲートへ向かう。この二つのゲートに挟まれた場所は,国際空港で,出国後に免税店が並んでいる場所と同じ位置づけとなるのだが,もちろん何もない。

 先ほどと同じように,日本の高速道路のバリアみたいなスロバキアの入国ゲートにバスが停車すると,スロバキアの入国審査官が乗り込んでパスポートを集め降りていき,しばらくしてパスポートを返しに来る。
 確認すると,今度はスタンプが押されていない。添乗員さんによると,最近は省略される傾向にあるらしい。スタンプも思い出の一つの観光客としてはちょっと残念だ。

 出入国にかかった時間は,トータルで30分弱。これでも最近は早くなったのだそうだ。押し寄せるEUの波の影響だろう。

ブラチスラバの街並み

スロバキアのドナウ川

 スロバキアは,スロバキア語ではスロベンスコ(Slovensko)で,チェコスロバキアの解体により1993年1月1日に独立。2001年までは日本大使館もチェコと共通だったため,日本との本格的交流はこれからという国だ。
 国土の80%は海抜750m以上の高地にあり,南部の低地はハンガリー平原の一部。ハンガリーとの国境近くには,スロバキアの人口の11%を占める最大の少数民族ハンガリー人が住んでいる。10世紀にハンガリーの支配下に入り,1918年のチェコスロバキア形成時までの約1000年間をハンガリーと共に歩んできた歴史を持つため,チェコ人とスロバキア人は異なった民族性を持つのだという。
 スラブ系民族としてハンガリーからの独立を望んだスロバキアは,ドイツ化へ反旗を翻していたチェコと連帯しチェコスロバキアを形成したのだったが,結局は1993年に連邦を解体し今に至る。

 そんなスロバキアの首都ブラチスラバは,ドナウ川中流にある交通の要所として古くから栄えてきた街で,1918年,チェコスロバキアの成立によりハンガリーの支配から解放されたとき,ハンガリー語のポジョニュ(Pozsony)から,10世紀の大モラビア帝国の王ヴラチスラフ1世(在位905?-921?)にちなんだブラチスラバに改名した。

 スロバキア入国後,約30分ほどでブラチスラバの建物が見えてきた
 車窓観光も楽しいが,朝8時から4時間以上ものバスの旅だったし,後半ずっと高速道路の単調な風景を見て疲れていたので,さすがに嬉しい。団地倉庫ペイントされた団地の壁道路標識まで,何もかもが新鮮だ。

 ブラスチラバもドナウ河畔の街で,橋を渡って町中へ入る。
 また,トラムの線路が広い道路の中央を走っていて,歩道には広告塔が立っている所など少しブダペストと似た雰囲気だが,ブダペストよりずっと小さな街なので全体的に地方都市という感じ。
 添乗員さんの説明によると,この町の特徴は,あちこちにモニュメントがあることだというが,早速広場に大きなモニュメントが立っているのを発見。
 道行く人々の多くは帽子をかぶっていて,見た感じ,晴れているにもかかわらず,ブダペストよりずっと寒そうだ。

ブラチスラバの市庁舎

 バスはドナウ川沿いの駐車場に入り,市内は徒歩観光。まずは運転手さんも一緒に昼食のレストランへ向かう。この街も半年前の大雨の時は洪水に遭ったらしいが,そんな面影は微塵も見つからない。
 川と平行に走る大通りを渡るとすぐにビル群が続いているが,いきなり屋根の上に彫刻が乗った立派なビルがあり,その向かい側にはマクドナルド。旧社会主義国のハンガリー,スロバキア,チェコなどでは,マクドナルドは西側文化の象徴として憧れの対象だったので,今でも少し特別な場所なのだそうだ。

 大通りから一歩踏み込むと,そこは石畳の美しい端正な街並みが広がっていた。商店街に煌びやかさはないが,人通りは多く活気がある。
 やがて旧市庁舎のある広場に出ると,そこには日の丸がはためく建物が。昨年(2002年)開館したばかりの日本大使館だという。以前はチェコ大使館が兼轄していたらしい。短期訪問者の査証相互免除も2002年3月から始まったばかりということだ。日本とスロバキアとの親交は,きっとこの大使館の設立によって,これからどんどん深まっていくのだろう。

 長い冬を明るく過ごそうとする工夫なのか,寒いというのに市庁舎広場の街灯には花が飾られていた。街灯のたもとにはライオンの彫刻。ブダペストのライオンゲートといい,ライオンはヨーロッパ人が最も好むモチーフの一つのようだ。

スロバキア料理

スロバキアのマス料理

 もう13時。朝も早かったのでかなりお腹がすいていた。

 食事に連れて行かれた店はちょっと変わった作りになっていて,ビルの入り口の上には人形が覗く窓があり,奥に入っていくとパティオになっていて,そこに入り口がある。
 レストランの中はワイナリーのような雰囲気で,通り向かいにある教会付属のワイナリー?として18世紀からやっている由緒正しいレストランなのだそうだ。日本では手に入りにくいという名産品の白ワインが販売されていて,欲しかったがハンガリーのトカイ・ワインを2本も抱えた身の上だったので,今回は泣く泣く諦めた。
 スロバキアの白ワインは美味しくて,ブラチスラバにはワインレストラン(ビニャーレン)がたくさんあるそうだ。やっぱりワインを飲んでおくべきだったと,後から後悔。

 前菜に出てきたのは,ハムで包んだポテトサラダに生野菜。ハンガリーにいる間極度の野菜不足に陥っていたためとても嬉しい。味も抜群だ。メインディッシュは,マッシュルーム・ソースのかかった魚(ドナウ産のマス)にジャガイモで,これまた非常に日本人好み。ハンガリーもそうだったが,アメリカに比べると中欧の食事は本当に美味しく感じる。デザートはフルーツのヨーグルト和えで,量的にも質的にもものすごくよい感じ。食後の珈琲も美味しくて,今までほとんど何の印象も無かったスロバキアという国の印象が突然アップした(^^;。



ブラチスラバ旧市街

ミハエル門

 レストランを出ると,スロバキアのガイドさんが待っていた。スロバキア人の女性で日本語は喋れない。彼女が英語で添乗員さんに説明し,添乗員さんが皆に日本語でガイドするという手順になるようだ。こんなところでも,スロバキアと日本がまだまだ馴染みの薄い関係だということを感じられる。

 一行は再び市庁舎広場まで戻り,そこから道路の王冠のマークをたどって細い道を抜け,聖マルチン教会を目指す。この王冠は戴冠式の行列が聖マルチン教会へ向かう時に通る道を示すものなのだそうだ。王冠の印は小さく控え目で,説明を聞いて気を付けなければ気付かなかったかもしれない。
 ふと,通りに面したビルを見上げると,窓辺に飾られた花が可愛らしかった。

 聖マルチン教会を目指して細い道を抜けると,まず目についたのは堂々とそびえるミハエル門だった。
 かつてのブラチスラバは,他の多くのヨーロッパの都市と同じように城壁に囲まれており,旧市街には3つもの城門があったのだ。これらの城壁門は16世紀から塔式に改築され,その中でミハエル門だけが現在まで残っている。ルネサンス様式のミハエル門は,1511〜13年の建設後,1753〜58年に改修されて今の形に至る。博物館及び展望台として利用されているとのことだが,今回は半日だけの滞在で時間がなく,遠くから見るだけ。スロバキアに来ることなどそう何度もなさそうなのにと思うが,仕方ない。

 ミハエル門から続く石畳の道には,高さの揃った美しい建物が続いている。デンマークの国旗を掲げたビルは,大使館か領事館だろうか?
 相変わらず,可愛らしいワインの店や,お洒落な店の看板マンホールなどを珍しがりながら歩いていく。
 快晴の昼間なのに昨日の雪のブダペストより寒く,途中で靴カイロを出した。人口45万人というブラチスラバの街の風景はブダペストより田舎という印象だが,重厚な感じの建物が並ぶ風景は100年前か200年前に来たようで趣がある。少し治安が悪いという話だったが,それほど怖い感じはしなかった。

聖マルチン教会

聖マルチン教会

 聖マルチン教会は,14世紀に建てられた85mの塔を持つ教会で,ブラチスラバがハンガリーの首都だった頃,ハンガリー王家の戴冠式が行われたという由緒ある教会だ。ブダペストがオスマン・トルコに占領された1541年から1784年まで,ブラチスラバはハンガリー王国の首都だったのだ。ハンガリー王の戴冠式は1563年〜1830年までブラチスラバで行われ,11人のハンガリー王と8人の王妃が戴冠した。また,ハンガリー議会は1848年までブラチスラバに置かれていた。

 聖マルチン教会の高い塔は,小さなブラチスラバの街の目印のように遠くからよく見える。もともと見張り塔だったものが教会に転用されたものらしい。塔の上には初代ハンガリー王イシュトヴァーン1世の王冠を模した,重さ300kg,高さ1.5mの冠が飾られている。細い1本道の曲がり角に建っていて,そこから背後をふり返ると,道の向こうに神聖トリニティ教会の塔。こちらも古いバロック式の教会らしい。

 狭い路地に建っているため,前で見上げると聖マルチン教会はやたらと巨大な教会に見える。超広角を使わなければ全景を撮るのは難しいだろう。密かに屋根の上に乗っている風見鶏が可愛らしい。
 ロマネスクとゴシックが混ざった建物ということだが,建築に詳しくないので説明を聞いてもよくわからない(^^;。中のステンドグラスはかなり見事なものらしいが,残念ながらそれを見ることもなく,外側をぐるりとまわるだけ。
 教会の庭には,ハンガリー出身の音楽家リストなどの銅像が立っているとのことだ。

 教会が建っている曲がり角を曲がると突き当たりは大通りになっていて,T字路の教会の向かい側には城壁の一部が残っていた。城壁が二重構造になってたのがよくわかる。
 大通りに沿って教会の反対側へと回ったが,教会の壁にはめ込まれたステンドグラスの絵?は,外から見ても充分美しい。  教会の西側にはブラチスラバのユダヤ人居住区を記念する銅像が建っていて,そこから見る聖マルチン教会は,西に傾いた太陽の光を浴びて輝いていた。西の方を見るとドナウ川の橋の上に建っている展望レストラン。時間があったら,観光客らしくこのレストランでドナウ川とブラチスラバの街を見ながら食事をするのもよかっただろう。

ドラッグストアとモーツアルトの家

モーツアルトの家

 聖マルチン教会の周囲をまわって教会の反対側の道路へ出ると,教会のすぐ横に,教会と同じような形式で壁に絵がはめ込まれた窓のついた家が建っていた。窓から外を覗く女の人や,窓から外を見上げたかのような青空など,かなり個性的だ。
 そこから市の中心部へ向かうあまり広くない道路沿いには古いドラッグストアが建っていて,この街で歴史的に使われてきた3つの言語,右からハンガリー語・スロバキア語・ドイツ語で店の看板が書かれているとの説明を受ける。ブラチスラバの街自体もスロバキア名のこの名の他に,ハンガリー名ポジョニュ,ドイツ名プレスブルクという3つの名前を持っているのだ。ちなみにこの店,今はドラッグストアではないらしい。

 その後,静かな街並みの中を市庁舎広場の方へ戻って歩いて行くと,少しずつ高い建物が増えてにぎやかになり,お金持ちが住んでいたという Rich Street を通り抜ける。この近くにはブラチスラバ唯一の日本食レストランがあるのだそうだ。ガイドさんの話では日本食“擬き”だとのこと。

 やがて,オーストリア大使館として使われている“モーツアルトの家”の前に出た。ここにモーツアルトが住んでいたわけではないが,6歳だったモーツアルトがこの家の前で演奏をしたことがあり,そう呼ばれているのだという。玄関の右隣の窓の横にはモーツアルトゆかりの家であることを示す碑が掲げられていた。
 モーツアルトの家の向かい側にも旗を立てた建物があったが,こちらもどこかの大使館なのだろうか? 旗を確認することもできなかった。

旧市庁舎広場

旧市庁舎広場

 モニュメントの多いブラチスラバの旧市街を一回りし,最初,レストランに行く前に通った日本大使館のある旧市庁舎広場へ到着。市庁舎広場の一角のベンチでは,ナポレオンが迎えてくれる。後ろがフランス大使館というのは,モーツアルトの家がオーストリア大使館であるのと同じようになかなか心憎い配慮?!

 ゴシック・バロック様式の2塔からなる旧市庁舎は,スロバキアでも最も古い公共建築物だ。1338年の建設当初はゴシック様式だったが,15世紀に周囲の建物と合わせられ,1733年の火災の後,一部バロック様式で改築されている。現在は市立歴史博物館として公開されており,時計塔がよく目立つ。塔の仕掛け時計は1410年の作品で,時計塔には,月のマーク,1809年にナポレオンが攻め込んできた時の弾丸の跡,3つの塔を象ったスロバキアの紋章が彫り込まれている。

 一行はこの日本大使館のある旧市庁舎広場で一旦解散。流れてくる《ドナウ川のさざなみ》のメロディに引かれて旧市庁舎の横の細い道を入っていくと,男の人が座り込んで,アコーディオンを奏でていた。

 細い道を抜けると広場になっていて,そこには1778〜81年に建設された大司教宮殿(左側の列柱のある建物)。エステルゴムの大司教が冬の宮殿として使った,フランス・クラシック様式の堂々たる建物だ。広場は比較的人通りも多いが,観光客だしということで,三脚を建てて記念撮影1枚。
 その後集合時間までのほんの20分ほど。時間もなければスロバキア・コルナも持っていないので,当然買い物もできない。広場から細い道を抜け繁華街へ出,そこを一回りし,民族人形を飾ったショウウィンドウを覗いたりして過ごす。ここでもバレンタイン商戦健在!
 しかし,何と言ってもブラチスラバの街の最も楽しい見物は街頭のあちこちに散りばめられている奇妙な銅像たちで,一つ一つがとてもユニーク。レンズを覗く男性魔術師?マンホールから顔を出す労働者など,ユーモアたっぷりなスロバキア人の一面を垣間見ることができる。

国立劇場

国立劇場

 短い自由時間が終わり,バスが駐車しているドナウ川沿いの駐車場へ向かう。行きは空腹で足早に通り過ぎていった通りを,今度は少し念入りに眺め,公衆電話何気なくバス停に貼り付けられているスロバキアの紋章などを撮りながら歩いていると,横を市電が通る立派な建物の前の広場に,往路でも見かけた銅像が立っていた。ガイドさんによると,4人の人が背中合わせで環になったこの銅像は,スロバキアの国が様々な民族の集まりであることを示しているという。

 ドナウ川と平行に走る大通りまでやってくると,往路で最初に見かけた屋根の上に彫刻が乗ったビルがあり,国立劇場だと説明を受ける。なるほど道理で立派で目を引いたはずだ。
 このトラム通りの横に立つバロック宮殿風の劇場は,1884〜86年にかけて建てられたもので,オペラやバレエが上演されているとのこと。劇場前から西へ長く伸びるフヴィエズドスラフ広場には,ギリシア神話の美少年ガニメーデスをモデルに1888年に作られたガニュメーデスの泉がある。もし時間がある旅だったら,是非この広場でのんびりと休んでみたいところだ。

 劇場横の大通りを渡ると,今度は国立自然博物館の前にライオンの像が立っている。この像はチェコスロヴァキアだった時代の強さの象徴だとか。言われてみると,如何にも堂々たるライオンだ。市庁舎広場の街灯の彫刻に続き,ブラチスラバで2回目のライオン発見。

 ドナウ川の脇の大きな駐車場に着くと,バスの近くに小さな子どもを連れた夫婦がいてガイドさんと何やら話しこみ,その後彼らは我々ににこやかな笑顔を送って駐車場の出口に向かった。添乗員さんも含め訳が分からずにいたが,この夫婦の女性の方はスロバキアの日本語の先生で日本語が喋れるのだそうだ。彼女がガイドをしないので,今のところスロバキアには日本語のガイドさんがいないのだという。
 スロバキア唯一の日本語が喋れる人だったのだろうか? いくら何でもそんなことはないだろうが,先にも書いたように,ブラチスラバの観光は,ガイドさんが英語で添乗員に解説し,今度は添乗員さんがそれを日本語で皆に説明するという方法で行われてきた。

ブラチスラバ城

ブラチスラバ城

 バスは旧市街を後にして,丘の上のブラチスラバ城へ向かう。途中,大統領官邸の前を通った。20世紀に入って建てられた建物だそうだが,夜はライトアップされているらしい。

 標高 262mの丘の上に建つブラチスラバ城は,建物の四隅に各々塔が立っているところから“ひっくり返したテーブル”と呼ばれている。マリア・テレジアの居城だったこともあって,彼女が好きだった“マリア・テレジア色”と呼ばれるクリーム色が美しい。中は国立歴史博物館や楽器博物館として使われているが,もう時間も遅く,外から見るだけだ。

 ブラチスラバ城が建つ丘陵からはドナウ川とバスでブラチスラバの街に入るときに通ったSNP(スロバキア国民蜂起)橋,そしてブラチスラバの街がよく見渡せ,古くから要塞として使われていたことが頷ける。ローマ時代の遺跡も見つかっているそうだ。城の歴史は10世紀にハンガリーの支配下に入った頃から始まり,様々な時の城主によりゴシック・ルネサンス・バロックなどに次々と改装されていき,1760年代のマリア・テレジアの時代に本格的に再建された。しかし19世紀に火災が起こり,現在の城は,第二次大戦後にマリア・テレジア時代の建物を再現するよう修復されたものだとのこと。
 四角い城の中庭から半地下へ降りたところに,マリア・テレジアが使っていた深さ80mの井戸があったが,これだけは見学できた。井戸は薄暗く,とても不気味。

ブラチスラバ城

 西日が当たっているものの,石畳は半分凍っているし,本当にとても寒い。井戸の見学を終えると,唯一開いていた城の外の土産物屋に暖を取りに入った。土産物屋のショウウィンドウは,繁華街の店のように人形生誕劇のミニチュアで飾り付けられ可愛らしい。
 中に入るとTシャツ,イースターエッグ,魔女のモビール,植物素材の人形にボヘミアングラス等の品物が並ぶ中,奥に陶器のマグネットや人形が置いてあった。特に何か買うつもりはなかったが,ブラスチラバ城のマグネット(3.95euro)フクロウの置物(2.95euro)を買ってしまった。ブラスチラバ城のマグネットなんて他では絶対手に入らないレアな土産物だし,スロバキアのフクロウも貴重品!

 城を後に門を出て坂道を降りていくと,ゴミ箱のポールにまで,例の三つの塔のスロバキアの紋章がついているのを発見。
 道を挟んでブラチスラバ城の向かいには国会議事堂がある。その前に銅像が立っていたのでガイドさんに尋ねてみたが,ただの Welcome statueだとのこと。ガイドさんはトラムに乗って帰るとのことで,ここでお別れだった。彼女は日本語で「ご静聴ありがとうございました」と言ってバスを降りていった。お疲れ様&さようなら。
 さぁ,一路ウィーンへ!

オーストリア入国

ウィーンのドナウ川

 スロバキアとオーストリアの国境は,ブラチスラバから数十分の近さ。一日に二度も国境を越えるのは初めての経験だ。スロバキア出国は,ハンガリー出国と同じ手順で,まず審査官がバスに乗り込みパスポートを集めて持っていき,しばらくして持ってくるという方法だった。やはりスタンプは無し…と思って一瞬ガッカリしたが,何と,入国のスタンプも出国のスタンプも一番後ろのページに並べて押してあった。途中のページを開くのが面倒だったのか?! しかし,私のパスポートには出入国共スタンプがあったが,人によっては出国のスタンプだけ。何だってこういい加減なんだろう?
 オーストリアの入国は,バスから降りて,各人がパスポートを持って窓口に並び申請する形。審査官は女性で,車用の入国スタンプを押してくれた。

 オーストリアに入るとひたすら平原が続き,あちらこちらに風力発電所が並ぶ風景が見られる。少しずつ日が傾き花屋マリア・テレジア色の民家が見えてきた。民家の雰囲気は,明らかにハンガリーよりあか抜けて見える。オーストリアはユーロに参加している裕福な国なのだろう。
 日没の後急速に闇が訪れ,30分ほどしてほぼ真っ暗になった頃,ドナウ川が流れるウィーンの街中に到着した。

ウィーンの夜景

 ウィーンは見るからに大都会だ。ビルが建ち並び照明も明るく交通量も多い。丁度帰宅ラッシュの時間帯だったため,あっという間にひどい渋滞に巻き込まれてしまった。
 かなりひどい渋滞でバスが進まないので,通り沿いの化粧品屋花屋食料雑貨店などの風景をゆっくり眺めることができた。ウィーンの歩行者用信号機は,日本の物とほとんど同じだ。花屋は日本に比べるとやたら多いようで,途中の駅?にも屋台の花屋を見つけた。

 ブダペストからブラチスラバ,そしてウィーンと,ずっと北に向かって移動してきて気温は少しずつ下がっているようだが,雪は次第に消えていき,ウィーン市内に入ると雪の姿を全く見かけなくなった。裏路地をのぞいても雪が積もった様子はない。どこへ行ってもひどく乾燥しているのだけは変わらない。

 1時間以上渋滞にハマってようやくホテルに着いたのは18時過ぎ。
 運転手さんは,明日の朝から突然仕事が入ったとかで,荷物を下ろしてブダペストにとんぼ返りしていった。二日間ありがとう&お疲れ様! 高速道路を使うとウィーン−ブダペスト間は3時間ほどだとのこと。

ウィーンのホテル

ホテル Harmonieの210号室

 ウィーンでの宿は,リングと呼ばれる環状線の北側,フォティフ教会から遠くないところにある HARMONIE。音楽の街ウィーンに相応しい名前のホテルではないか?
 ホテルの玄関は裏通りに面しており,あまり大きなホテルではない。玄関の扉に貼り付けてある楽譜入りの鳥がこのホテルのマークらしい。ロビーは小さく,エレベーターの扉はオーストリアで一般的らしい手動。フロントには,国際ホテルらしく,ウィーン・ニューヨーク・東京の時刻を告げる時計が並んでいた。

 旧式で大きな鍵を受け取ると,直ちに部屋へ直行。夕食の集合時間までの30分ほどの間に,荷物を解いてデジカメの写真をパソコンに移し,電池の充電を始めなければならない!

 しかし,前途多難なホテル生活は,既に部屋のドアの前で始まったのだった。鍵が開かない! 必至で取り組むこと数分? 何とか鍵が開いて中に入ると,210号室はブダペストのホテルよりずっと広い。ベッドの小ささだけはブダペストのホテルと同じだ。
 白い壁と,金色のポールに下がった真っ白なカーテン。天井にはスポットライト。真っ白なタンスに薔薇の模様の絨毯,洗面台の横にはビデがついていて,まるで絵に描いたような西欧の部屋だ。ビデの実物を見たのは初めて。
 トイレに備えられているトイレットペーパーはハンガリーと同じくキッチンタオルのようなごわごわのやつで,こちらの人のお尻はよほど丈夫にできているのだろうか,などと思う。洗面台には石鹸とティッシュペーパーが,シャワーにはリンス入りシャンプーが備えられているが,シャワーは旧式で,かなり使いにくそう。
 テレビは小さいが,長椅子が備わっているのはちょっと便利だ。

 しかし,すぐ向かいに建物があるというのに,このスケスケの薄いカーテンしかないの? おまけに寒くてうるさい…。窓へ寄ってみると,半開きの状態だった。何と窓の鍵が壊れていて,きちんと閉まらないのだ! 寒いのはもちろんだが,2階だしこれでは防犯上も不安ではないか? 早速添乗員さんに電話して訴えると,ホテルの人が点検に来てくれた。やはり壊れていてその場では直らない。同じタイプの部屋は空いていないとのことで,食事の間に直してくれることになった。
 この時点で,既に食事の集合時間の19時になっていたので,食事前に荷物を開いてパソコンやカメラを広げる計画はおじゃん。今夜の仕事は全部食後に後回しとなってしまった。

ウィーンの名物料理

ウィーン名物カツレツ

 夕食は,ホテルのレストラン。小さなホテルらしくこぢんまりとしたスペースだが,布のペンダントランプが美しい。
 まずは飲み物の注文だが,ヨーロッパは南部が赤ワイン,寒い地方では白ワインが美味しいというので白ワインをオーダーすると,美しいピッチャーに入って出てきたが,味は特徴のない辛口で,正直な話,あまり美味しいとは思えなかった。
 レストランでは唯一の女性従業員が一人一人に「Bitte sehr!」と言って給仕してくれるのだが,ネイティブのドイツ語を初めて聞く私は,この言葉にオーストリアへ来たことを実感し,ちょっと感動。

 前菜に出てきたスープはちょっと変わっていて,芋か何かの穀物を磨り潰して作ったような団子?が入っている。きりたんぽみたいな感じ? 見ても食べても結局何なのかわからなかった。
 メインディッシュはウィーン名物のカツレツだったが,私は食べ物にあまり興味がないため,今日の今日までカツレツがウィーン名物だなんて知らなかった。子牛肉をしっかり叩いて薄く大きく伸ばし,それにパン粉をまぶして揚げたもので,シュニッツェルと呼ばれているらしい。カツレツは美味しいが,油っぽい割には量が多く,少々残してしまった。つけ合わせは炒めたタイ米と雀の涙ほどの生野菜。炒めた米は美味しかったが,野菜の少なさには全く悲鳴をあげたくなった。

 デザートは,これまたウィーン名物のチョコレートケーキで,本当に,文句なしに素晴らしく美味しい。ウィーンといえばチョコレートなのだということも,今日の今日まで知らなかった。明日はホテル・ザッハーでザッハートルテを食べることになっているが,楽しみだ。

苦労は続くよ

 食後,部屋に戻ると,今度は本格的に部屋の鍵が開かなくて大変! とうとう添乗員さんのところへ助けを呼びに行く始末。彼女は彼女で,窓の鍵が直ったかどうか確認しようと私たちの部屋へ何度も電話をかけ続けていたようだが,私たちがいつまでも電話に出ないので,どこかへ出かけたのかと思っていたようだった。鍵は二重ロックになっているとかで,使い方を説明してもらったが,難しくて理解できたとは言い難い。これから2日間,鍵には苦労しそうだ。

 ようやく部屋で落ち着くことができたが,既に体力の限界。
 疲れていたが兎にも角にもデジカメの写真をパソコンに移動させて処理したり,デジカメの電池の充電を始めたりして仕事をこなす。
 しかし,シャワーを浴びようとして更に疲れてしまった。バスタブに溜めたお湯を流すのに異常に時間がかかって大変だったのだ。さっき添乗員さんが,「オーストリアでは何でもゆっくりするのがもてなし」と言っていたが,お湯を流すのまでゆっくりなのだろうか? 素早く正確なことを評価する日本人としては,信じられない。
 今後はバスタブにお湯を溜めるのは諦め,シャワーだけ使うことにしよう。

 シャワーの後は,連泊のホテルの1泊目の恒例行事,洗濯だ。乾燥した空気で手がボロボロになっているので洗剤など触りたくないところだが,仕方がない。ところが,洗濯をしていると,洗面所の壁のどこからか水が漏れてきて床は水浸し。メンテナンスはどーなってんの?
 ようやく仕事が終わってベッドにはいると,今度は隣の部屋のシャワーを使う音がもろに響いてきてうるさく眠れない。古いホテルなんだろうけど,ブダペストのホテルの方がずっと設備も使いやすくてよかったな。ま,我慢我慢…。


ブラチスラバ市のホームページ
Hotel Harmonie のホームページ (Best Western Hotel Harmonie)




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