中欧旅行記 ★ 大都会ウィーン

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参考文献

つらい朝 (2003-02-13)

ホテルHarmonieの朝食

 海外ツアーに参加すれば通常1回か2回はハードスケジュールな朝があるものだが,この日がまさにそれで,7時半にはバスに乗って出発という強行軍。それなのに,朝食を採るレストランが開くのは7時で,食べる時間はあって無きようなもの。
 少しでも余裕を持たせるべく,5時50分に起床。ホテルの部屋の窓からの風景を撮り,身繕いと部屋の片づけを済ませ,7時5分前に食堂へ向かった。案の定,ツアーの他の皆さんも早めに来て食堂の前で待っていたが,食堂は本当に7時ピッタリにならないと開かない。こういうところは妙に正確なのね?

 食事はお決まりのバイキング。
 しかし,よく言えばこぢんまりした,悪く言えばしけた品揃えで,パンにシリアル,ハムとチーズ,そして飲み物,フルーツポンチ,ヨーグルトが全て。もちろん?野菜は皆無でハムとチーズも各々2種類ずつ。その質素さときたら,昨日まで泊まったブダペストのホテルが素晴らしく高級ホテルだったような気がしてくるほどだ。
 その上甚だ狭いサーブスペースに,開店と同時に皆が押し寄せるのだから混雑の極み。時間がないというのにバイキングに時間がかかり,朝食をとるというより燃料補給。どうせゆっくりできないのだし,と思えば,こんな朝食でも諦めがついてしまった。
 さっさと済ませて一旦部屋へ戻り,手荷物を持って集合場所へ。

目が覚めるような街並み

朝日を浴びるウィーンの街並み1

 今日のガイドさんは日本人の女性だが,シュミットさんというドイツ系の名前。こちらの人と結婚してウィーンに住んでいるのかな? テキパキとした人だ。バスへ案内されながら,彼女から,今日の最低気温は-9℃で,最高気温は-2℃くらいまであがるという話を聞く。さすがに空気は刺すように冷たい。
 昨夜着いた時は既に暗くてわからなかったが,ホテル周辺の建物は,みんな裏通りの普通のビルなのに装飾が豊かでとても美しく,青空と冷たい空気がよく似合う。少し大きな通りに出ると,そこに半日お世話になるバスが待っていた

 蓄積した疲れがとれないままバスに乗り込んだ私だったが,バスが走り出しウィーンの風景が目に飛び込んでくると,あっという間に疲れがふっとんで元気になった。
 あまりにも美しい! 東洋のごちゃごちゃの街並みを見慣れている私には,大袈裟じゃなくて本当に目を見張る絶景! まさにここが,長い長い間,芸術の中心地として栄えた街だということを全身で感じずにはいられない贅沢さだ。

 車窓にうっとりしながらガイドさんの説明を聞いていると,大都会に見えるウィーンだが,人口は160万人。ブダペストの200万人より少ないのは意外だった。オーストリア第二の都市グラーツは人口20万人なのだそうで,国の人口の5分の1が首都に集中していることはハンガリーと同じ。人口810万人のオーストリア国土総面積は,北海道にほぼ等しいという。
ヴォティーフ教会  ところで,日本語ではウィーンを現地の言葉ドイツ語で Wienと呼ぶのに(英語名 Vienna),国名はドイツ語名エスターライヒ(Österreich=東の国)ではなく英語のオーストリア Austriaを採用しているのは何故だろう? おかげで Wienと書いた地図がいいのか,Viennaと書いた地図がいいのか迷ってしまった。

 最初の目的地は,ホテルから見ると,リングと呼ばれる市の中心部を取り巻く環状線に囲まれた地域を越えて,丁度向こう側にあるベルベデーレ宮殿。
 ホテル周辺の道路は裏通りも広く,道路標識が日本と同じくらい沢山立っている。

 裏通りを抜けると,まずいきなり目に飛び込んできたのが,ホテル近くにある立派なヴォティーフ教会だった。あまりの巨大さに,とても横を走りながら35mm程度のデジカメの視野に入れることはできない。建物が黒いのは排気ガスで汚れているためらしく,少し先の交差点には建ったばかりの,若しくは壁掃除したばかりの白い建物があった。

 バスは,渋滞を避けて市庁舎や国会議事堂の裏側の商業ビルが乱立する道を抜け,右手に彫刻が美しい劇場のような建物トラムの駅を見ながら南へ向かって走っていく。すると,やがて行く手に朝日に輝くクリーム色の大きな建物が見えてきた。なんと,ハプスブルク家の馬小屋だった建物なのだそうで,一同唖然。ハプスブルク家が如何に栄華を誇っていたかが偲ばれる。

モーツァルトの銅像

 このハプスブルクの馬小屋を通り過ぎると広い交差点になっていて,我々のバスはここでオペルンリング(Opernring)へ向かって左折。リングに入ると目の前が王宮のブルク庭園(Burggarten)で,遠目にモーツアルトの記念像が見えた。

 それからほどなく,左前方のケルントナー通り(Kärntner Straße)とオペルンリングの交差点に有名な国立オペラ座が見えてくる。総数1709席の客席を持つネオルネサンス様式のオペラ座は,欧州でもパリのオペラ座と並んで最高級の規模を誇るウィーンの顔で,1869年からの古い歴史を持つ。地下のインフォーメーションセンターは情報収集に役立つし,見学ツアーに参加すれば中を見ることもできるというので,午後から是非来てみたいと思う。
 オペラ座前の交差点で信号待ちをしていると,交差点を挟んでオペラ座の対角にある銀行のビルに,日本でもよく見かけるコンビニエンス・ストアー SPARが入っていた
 オペラ座の前にはトラムの駅があったが,おそらくトラムが観劇の人々の足になっているのだろう。

 ウィーンの街は一方通行が多く,渋滞を避ける必要もあってか,バスはベルベデーレ宮殿に一番近い交差点を曲がるのではなく,リングに沿ってしばらく進んだ後,緑豊かな市立公園(Stadtpark)の前を通り過ぎたところで右折。
 装飾豊かな商業ビル群を眺めながら,緩やかなカーブを描いて市立公園の周囲をまわり,ベートーヴェン広場(Beethovenplatz)の横を通って再びリングへ。ベートーヴェン広場にはベートーヴェンの銅像が立っていて,これがベートーヴェンの墓になっているらしい。

朝日を浴びるウィーンの街並み2

 ブダペストの建物も美しかったが,ウィーンの建物は更に豪華で全てが芸術作品といった感じ。本当に,どちらを向いても感嘆の連続だ。金の銅像をあしらったマリア・テレジア・イエローの建物にはユーゴスラビア(*)の国旗が掲げられていたが,大使館か何かだろうか。
 (*これより約1週間前の2003年2月4日,1992年4月に誕生した新ユーゴスラビアは終止符を打ち,新連合国家セルビア・モンテネグロが誕生している。)

 再びトラムを見ながらリングを走り,宮殿へ向かって南へ向きを変えると,特徴あるモニュメントを抱く広場が出現。
 第二次大戦後,一時的にウィーンを占領したソ連軍によって建てられたソ連軍兵士を讃えるための記念碑なのだという。当然ながら,旗を掲げたソ連兵士の像は敗戦の象徴であり,ウィーンの人々にはあまり好かれていないそうだ。その割に,そういう時代が過ぎ去った今も壊されずに残っているのは不思議な気がした。ブダペストのゲッレールトの丘にあったソ連兵士の像はさっさと取り払われてしまったのに,ハンガリーのように社会主義国家としてソ連の圧力下に置かれることのなかったウィーンの人々は,もう少し穏やかな気持ちでいられるのだろうか? モニュメントの前は噴水になっているが,冬なので水は上がっていなかった。

 このモニュメントを通り過ぎると,そろそろベルベデーレ宮殿の周辺にさしかかる。しかし広い宮殿ゆえ,そう簡単には門へたどり着かない。
 彫刻に縁取られた建物や珍しく装飾の少ないマンションなどを通り過ぎ,トヨタの広告が掲げられたビルの前で信号停車…と思ったら,そこがようやくベルベデーレ宮殿の前だった。

ベルベデーレ宮殿

ベルベデーレ宮殿

 ホテルを出て50分ほど。2月の朝8時20分,冷え込んだベルベデーレ宮殿に人影はなく,白いクチバシを持ったカラスたちが,門の周囲の木に群がってカァカァ鳴いているのみ。

 歴史や文化に疎い私,ウィーンの宮殿といえばハプスブルク家ゆかりと思ってしまうが,ベルベデーレ宮殿は,フランス出身の貴族サヴォイ公オイゲン(通称オイゲン公:1663-1736)が,彼の持つ財力と建築美学を結集して1714年に建設を始めた夏の離宮だ。

 フランスのブルボン家,ルイ14世に冷遇されてオーストリアへやってきたオイゲン公は,時の皇帝レオポルト1世(在位1657-1705)によってハプスブルクの軍隊に迎えられ,オスマントルコからウィーンを救う立役者となったのだ。その後のスペイン継承戦争でも,彼は大きな戦果をあげてオーストリアに貢献した。
 勇敢で,類い希な読書家で数学・科学・神学など幅広い教養を持ち,芸術を愛し美的感性に優れたオイゲン公は,庶民の人気を博し,彼の武勲は民謡にまで歌われたという。

ベルベデーレ宮殿のスフィンクス

 ベルベデーレ宮殿は庭を挟んで上宮と下宮が向かい合う形になっており,上宮(Oberes Belvedere)は公賓をもてなす気取った宮殿,下宮(Unteres Belvedere)は親交の厚かった人々が集まる気楽な雰囲気の宮殿。現在,上宮は19・20世紀美術館,下宮はバロック美術館として使用されているが,勿論,こんな早朝には開館していない(^^;。

 金の王冠が煌めく門を入っていくと,広大な庭の向こうにベルベデーレ上宮が静かに朝日を浴びている。冬枯れの庭に色は少ないが,手入れの行き届いた庭木が可愛らしい。建物の上は,やっぱり沢山の彫刻によって取り巻かれている。

 上宮の横を通り過ぎて中庭にまわると,女性の顔をしたスフィンクスが中庭を守るように立っており,その遙か向こう,ウィーンのシンボルシュテファン大聖堂を背景に下宮が建っていた。
 中庭の中央に立って眺めると,庭木とスフィンクスが整然と並んでいるのがわかる。中庭側の上宮正面から下宮を眺めると,こういう風景になるのだろう。

 一通りの写真撮影のみで,今来た道を引き返す。日が昇ってきて,上宮に降り注ぐ陽光の角度が少し変わっているようだ。
 中の美術館を見られないのは残念だが,この贅沢な宮殿を独り占めして撮りたい放題に撮影できたのは,身を切るような冬の早朝のおかげ。ガイドさんによると,夏は早朝でも観光客がいっぱいなのだそうだ。
 ベルベデーレ宮殿の南側には植物園(Botanischer Garten)があり,宮殿の門を出ると案内板が立っていた。この植物園は,薬草園として1754年に開かれた古い植物園で,チロル地方から採取した植物でまとめたアルプス庭園などがあるとのこと。

 ●ベルベデーレ宮殿のホームページ

シェーンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿

 外観見学のみでベルベデーレ宮殿を去ると,次に向かうはハプスブルクの夏の離宮,シェーンブルン宮殿(Schloß Schönbrunn)。この宮殿の見学は予約制になっており,我々のツアーの予約は午前9時15分。そう,市内観光のみなのに朝の出発が異常に早かったのは,シェーンブルン宮殿の予約時間のためだったのだ。

 シェーンブルン宮殿はウィーンの中心部からかなり西に離れたところにあるが,郊外で道も混雑していないため,ベルベデーレ宮殿からは,風景を眺めながら車で20分ほど。スロバキアでもよく見かけたが,壁面一杯に派手なペイントをした建物が意外に多い。

 さて,ハプスブルクといえばオーストリアで,私にとって唯一の有名人は,マリー・アントワネットの母親マリア・テレジアだった。だが,ハプスブルクはもともとスイスの出身で,1200年代後半になってオーストリアへやってきたのだという。
 当時このあたりで力をつけていたボヘミア王オタカル2世(在位1253-1278)を危険視したドイツの将校たちによって,スイスのバーゼル近くの丘の上に建つ小さな城塞ハビヒツブルク(大鷹の城)を拠点としていたハプスブルク伯ルドルフがドイツ王に選出されたのが,その台頭のきっかけだった。
 1278年のマルヒフェルトの戦いでオタカル2世に勝利したルドルフ1世は,ウィーンへ移り,ここに,その後640年に渡って続くハプスブルクの時代が幕開けしたのである。

シェーンブルン宮殿

 こうしてオーストリアを手中に納めたハプスブルク家が,ウィーン郊外に狩猟のための広大な森を獲得したのはフェルディナント1世(在位1519-1564)の時代の1559年。その後マティアス大公(在位1612-1619)が,森の中に美しい泉(schön Brunnen,シェーン・ブルンネン)を発見し,さらに時代が下った1695年,レオポルト1世(在位1657-1705)によって,ここに宮殿の建設が始まった。

 レオポルト1世は,ヨーロッパ最高の宮殿との誉れ高いヴェルサイユ宮殿を凌ぐ宮殿にしようと設計を命じ,その構想自体は完成されることがなかったものの,1713年の落成以降もカール6世(在位1711-1740)やマリア・テレジア(在位1740-1780)によってこの宮殿は拡張され続けた。
 そうして1000室以上の部屋数に139の台所を持つ巨大なシェーンブルン宮殿は,ヨーロッパの代表的な宮殿として名を馳せ今に至る。

 門をくぐって敷地内に入るが,さすがハプスブルクの宮殿というべきか,建物は広い敷地の遙か向こう。マリア・テレジア・イエローが,朝日の中でまぶしく存在感をアピールしていた。
 予約までの少々の時間を利用して,初夏になるとバラが美しいという裏庭を通って宮殿の反対側へまわり,冬枯れの庭園を見学。まさに広大無辺と呼ぶにふさわしいこの庭園は,1765年以降に,バロック,ロココ,クラシック様式を取り入れて作られたもので,一角には宮殿の名前の由来になったシェーンブルン(うるわしの泉)も残っている。庭園の遙か彼方に霞む建造物は,1757年にマリア・テレジアの軍がプロシアを破ったのを記念して建てられたグロリエッテ(Gloriette)。グロリエッテの屋根には,皇帝を意味する鷲が翼を広げている。ちなみに鷲は,宮殿の正面の屋根の上にも乗っていた

 シェーンブルン宮殿の庭を広大な庭園に拡張したのはマリア・テレジアだったそうだが,「この庭園は誰にでも開放されるべきだ」という彼女の考えが踏襲され,この庭は今も出入り自由。近所の人々は朝夕散歩し,私たちがいた短い間にも,先生に連れられた子どもたちの集団を何組も見掛けた。日常生活の中で普段からこんな庭を見て暮らしていたら,きっと芸術感覚も鍛えられることだろう。
 どこか工事中だったようで,私たちの目の前を作業車が通りすぎて行ったのは,ちょっとしたご愛敬。

 再び入ってきた門の方に戻って宮殿へ入ると,小さな売店や出店や化粧室があり,そこから彫刻などが飾られた廊下から改札へ向かい,切符を持ってそこを通り,見学に入るようになっている。

シェーンブルン宮殿の庭園

 改札を通って階段を上ると,まず,天井に大きなフラスコ画が埋め込まれた華やかな大広間へ出た。マリア・テレジアの時代に作られた広間だということだが,人も多くあっという間に通り過ぎる。ここで宮殿内は写真撮影禁止と聞いたので,残念ながらこれ以降の写真は無しだ。
 宮殿内はどこもガイドに連れられた観光客がいっぱいで,本当に世界各地から来ているという印象。私たちのすぐ前は中国語圏の団体だったが,説明が長くなかなか動かないので,しびれを切らせた私たちのガイドさんは,途中で彼らを抜いてしまった。

 宮殿内で公開されているのは1000以上ある部屋のほんの一部に過ぎないが,それでもナポレオン2世が21歳で亡くなった部屋とか(ナポレオンの息子がウィーンにいたなんて知らなかった),壁がコブラン織の絵でできた部屋とか,エキゾチックな東洋の絵が描いてある木で作られた陶磁器の部屋とか,ハプスブルグ家の家族の肖像画が並んだ部屋とか,オーストリア併合の時にヒトラーが演説した部屋とか(ナチスドイツの象徴ヒトラーがオーストリア出身で,ウィーンで芸術家を目指していたなんてことも知らなかった。しかし後から調べたところ,ヒトラーのオーストリア併合の演説は新王宮だったようなのだが?),とても覚えられない。じっくり見ればいくら時間があっても足りないだろう。巨大な暖炉がお洒落で素敵だったが,そんなものはガイドブックにも載っていないというのに,写真が撮れなくて残念だった。

 ツアー故じっくり見ることはできないが,ガイドさんの説明を聞きながら要領よく見学し,最後,土産物屋で解散。宮殿かウィーンの風景画があったら欲しかったのだが,見つけられず断念し,悩んだあげく,シェーンブルン&エリザベート皇妃のキーホルダー双頭の鷲の紋章とオーストリア地図のキーホルダー紙ナプキンを買ってバスに戻る

伊勢丹でお買い物

 ウィーンは街中見るものだらけだというのに,午前10時,シェーンブルン宮殿を出ると,ツアーで連れて行ってくれる観光地巡りはこれでお終い。本日昼食までの1時間,あとはパックツアーにお決まりの免税店観光?だ。

 店は街の中心部,オペラ座の近くにあるISETAN。そう,伊勢丹。
 どちらにしてもどうせ土産物は買わなければならないのだし,できるだけ時間を無駄にしないためにも,そして税金を無駄に支払わないためにもここでしっかりまとめて土産物を揃えておくのが賢そう。それというのも,オーストリアでは1件の店での買い物金額が75ユーロを超えると免税の対象になるというのだ。
 親戚や仕事先のお土産などをまとめて買って78ユーロ。免税書類を作ってもらい,一安心。オーストリアを出る国境の税関で書類と買った品物を提出し申告すると,支払った税金が返って来る仕組みらしい。税金は意外に多いので,侮るわけにはいかない(^^;。

 75ユーロといえばそれなりの金額のような気がするが,オーストリアの民芸品は美しく趣味がよく,種類も豊富ときている。その上だめ押しのように物価が少しも安くない…というより,ハッキリ言って高い! そんなわけで,この金額を超えるのは意外に簡単?なのである。
 レースの花瓶敷き鍋つかみランチョンマットエスプレッソウィーンの街が描かれた美しい缶に入った紅茶紙ナプキン小さなジャムモーツァルトのチョコレート。この店では,誰にというわけもなく,とにかく目についたものを色々調達。必要な数の土産物がほぼ揃ったので気楽になった。

 ちなみに店のスタッフはもちろん?日本人。日本語が通じるのは当然として,美しい化粧室をチップなしで借りることができるし,買った品物の数だけ袋をくれる気の利きようもさすが日本の百貨店。
 最初は「えー,伊勢丹?!」と思ったものの,トイレと土産物の用事を一度に片づけられる便利なスポットということで,次回,個人でウィーンを訪れることがあったとしても,やっぱりここへ来てしまうかも。

早い昼食

ウィーンのレストラン

 買い物が終わると,まだ午前11時を過ぎたところだというのにもう昼食。まぁ,朝は早く,その上ろくに食べる物がなかったので,確かにお腹がすいている。

 連れて行かれたレストランは,市立公園近くの裏通りにあり,半地下になっていて,中は本当に暗い!
 昨日のスロバキアのレストランもそうだったけど,こちらのレストランは手元が見えればよいという程度の照明が普通なのだろうか? 確かに日本人は明るいのが好きだと聞くし,日本みたいに特別明るくしなくてもよいのだが,机の下に黒いカメラのケースを落とした時は,手探りで探し出すのが大変だった(^^;。

 テーブルの上には水差しとタンブラーが置かれており,タンブラーには "1/8" "1/4" の目盛りが入っている。お酒を注ぐときの目安らしい。もちろんワインにひかれたが,午後からの観光を考えて,ここは水を飲むことに。
 オーストリアの水はアルプスの綺麗な水なので,ありがたいことに,日本人も生で飲むことができる。

 まず出てきたのは,昨夜のホテルの夕食と同じキリタンポみたいな穀物の塊が入ったスープ
 メインディッシュは昨日の昼食と似たような感じで,魚とジャガイモと飾り程度の生野菜の付け合わせ。但し,昨日とは違って魚の上にブルーチーズの塊が乗っている。ヨーロッパ人は肉ばかり食べているのかと思っていたが,魚も食べるのだと知って少々意外な感じ。

 デザートはチョコレートムースだったが,あまりに多かったし,午後からチョコレートたっぷりのザッハトルテを食べに行かねばならないこともあって,4分の1ほど残してしまった。

ナッシュマルクト

ナッシュマルクト

 昼食後,夕方までは自由時間だ。街の中心部,オペラ座近くまでバスで移動し,そこで解散したのは12時頃。早速,車窓から目を付けていた市場を目指して出発する。
 日は高く,よく晴れているのにウィーンはやっぱり寒い。歩いていても足先からどんどん冷えてくるので,解散場所からたった10分ほど歩いただけで,目的地に着くのが待ち遠しくなった。

 私たちの最初の目的地,ナッシュマルクト(Naschmarkt)は,オペラ座の南にある分離派会館ゼツェッションの脇から南西に向かって伸びるウィーンツァイレ(Wien zeile)という通りの中央分離帯を利用した市場。ウィーンの台所と呼ばれ,1kmに渡って野菜店豆類専門店乾物屋?ワイン専門店チーズ専門店飲食店など様々な食料品店が並んでいる。

 Naschmarktの"nasch"は甘いものを指す言葉で,昔は菓子類を扱う市場だったらしいが,現在は食料品全般が取り扱われている。市場と言っても非常に整然として美しく,清潔な感じだ。オーストリア人は誇り高く,明らかな観光客であっても店の人たちが物を売りつけるようなことはない。英語で話しかけられることすらなく,今まで私が訪れた外国の市場とはちょっと違う雰囲気だ。中国人観光客が多いのか,何度か「ニーハオ」と声をかけられたが,単に挨拶してみたいだけらしく,だからって何か売ろうとするわけでもない。
 ただし,くわえ煙草で歩いている人が多いのにはちょっと参った。煙草の広告も多いし,ハンガリーもそうだったが,オーストリアも煙草好きが多そうだ。スウェーデンとかベルギーなどのイメージからヨーロッパは禁煙の国が多いのかと思っていたら,国によって随分違うようだ。

 市場では珈琲を探して歩いたのだが,基本的に店の人はみんなドイツ語だし,表示もドイツ語のみなので,面倒になって買い物は断念。結局何も買わずに半分くらい歩いたところで引き返した。

ザッハトルテ

 ナッシュマルクトを出ると,とりあえずオペラ座方面へ向かって歩き始めた。
 午後の予定で決まっているのは,ホテルザッハーでザッハトルテを食べることで,できればオペラ座の見学もしたい。ホテルザッハーとオペラ座は,通りを挟んで向かい合わせに建っているのだ。

 ナッシュマルクトで念願のウィーン珈琲は買えなかったが,オペラ座へ向かう途中の道筋で,ヨーロッパへ来て初めてスターバックスを発見
 ウィーンの街はどちらを向いても観賞に値するビルが並んでいて,街中が美術館のようだ。ブダペストではビルを建てるとき,隣の建物と1階違いまでの高さに揃えるよう決まっているという話だったが,ウィーンの建物も随分と高さが揃っている。おかげで街並みがすっきり整って見えるのだろう。

ザッハトルテとメランジュ

 それにしても,まだツアーの解散から1時間しか経っていないのに,冷えることといったら…! オペラ座に着くと,オペラ座の裏手にまわって座り込み,少しばかり休憩した。寒さのおかげでいつもより疲れやすくなっているようだ。
 さて,オペラ座の日本語見学ツアーは15時からだが,まだ13時。ザッハトルテを食べるという用事があると思うと行動が制約されるし,疲れてもいたし,まだあまりお腹はすいていなかったが,私たちは先にホテルザッハーのカフェへ行ってみることにした。

 チョコレートのスポンジでアプリコットジャムを挟み,それを更にチョコレートでコーティングしたザッハトルテは,菓子職人フランツ・ザッハーによって1832年に考案されたウィーン銘菓。ホテルザッハーはこのフランツの息子によって創業された正真正銘の本家本元なのだ。
 ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフやエリザベート皇妃にも愛されたこのケーキはウィーンで是非とも食べなければならないものなのだそうで,ツアーからミールクーポンが配られていた。添乗員さんによると,日本で食べたら2000円相当のクーポンで,気分が悪くなっても食べてみる価値があるという。

 しかし,ホテルザッハーはすぐにわかったものの,肝心のカフェがわからない。最初に入ったレストラン?でクーポン券を見せると,ここではないという。どこへ行ったらよいのか店の人に聞きたいが,ドイツ語ではどうしようもない。
 ようやくクーポン券で入れてくれる入り口にたどり着き,ホッと一息だ。

ホテルザッハーのカフェ

 コートだのマフラーだのと荷物の多い冬場なので,まずはクロークルームへ直行し,身軽になって店内へ。お茶の時間にはまだ早いためか,店内はガラガラ窓際の特等席に座ることができた。各テーブル上のメニューには,ザッハトルテを紹介する記事が。
 早速運ばれてきたホテルザッハーのザッハトルテとメランジュは,確かに忘れられない絶品。店の人も観光客慣れしているようで,これらが運ばれてくると,何も頼まないのに写真を撮ってくれると申し出てくれた。

 メランジュ(ウィンナコーヒー)とザッハトルテを堪能すること1時間。
 窓の外を眺めながら非常にゆっくりしてしまった。アメリカとはぜんぜん違う歴史の重みを抱いた美しい風景を眺めていると,ヨーロッパの誇りが感じられるようで,何だかホッとする。古い国に生まれ育った日本人には,例え異なった文化であろうと歴史を背負った街は心地よく感じられるのかもしれない。
 通りを歩いていくのは観光客風の人が多く,シーズンオフだというのに日本人と思われる人も意外に多い。夏はきっと,日本人だらけになることだろう。

 外は寒いし珈琲も飲んだしということで,最後に化粧室に寄って店を出る。さすが有名なホテルとあって,広くて美しいトイレに感心して一枚(^^;。そして店の外から,私たちが座ったガラス張りの窓辺の席を一枚撮って,ザッハトルテの故郷を後にした。



オペラ座

 カフェでゆっくりしたにもかかわらず,15時のオペラ座の日本語ツアーにはまだ1時間近くもある。あまりに時間が束縛されるとどう動いていいか分からないため,私たちはオペラ座の周囲を一周しただけで,そのまま観光をしながら歩いてホテルへ向かうことにした。残念だがツアーで夜の予定も決まっているし仕方がない。

 オペラ座の前には学生と思われる人たちが何人か立っていて,今夜や明日のチケットを売っている。いくら音楽の都といっても,何も知らない観光客がウィーンへ来ていきなりコンサートなんて無理だろうと思っていたが,こういう人たちからチケットを買えば,毎日それなりにカジュアルなコンサートを見られるようだ。今回はダメだが,次回来ることがあったら是非利用してみたいと思う。

王宮(ホーフブルク)

ホテルザッハーのカフェ

 まずは,オペラ座のすぐ近くにある王宮(Hofburg)へ向かった。
 わざわざ裏通りから遠回りして新王宮を目指していると,王宮庭園の向かい,オペルンリング沿いに,Goetheの銅像が立っていた。観光客と思われる白人カップルが銅像の前で記念写真を撮っていたので,何となく私たちも真似っこして記念撮影。

 ちょっと余談…。
 Goetheといえば勿論ドイツの詩人ゲーテだが,しかし,地図を見るとこの像は "Goethe D."となっている。詩人ゲーテは Johann Wolfgang von Goetheだから,頭文字に "D"はない。じゃあ,この"D"って?
 最初像のことかと思ったが,ドイツ語で“彫像”は英語の statueと同じ"die Statue"だ。それじゃ記念碑などを示す略号かも,と思って地図で他の彫像を調べてみると,案の定,"Dkm."とか "D."という文字がくっついている。
 結局,記念碑を表す das Denkmal というドイツ語が地図の上では "D."とか"Dkm."と表されているとわかった。

 裏門?から王宮庭園(ブルク庭園,Burggarten)へ入り,まず,朝バスの中から見かけたモーツアルト像(Mozart D.)と再会。1896年に作られた彫像で,王宮一番の人気スポットらしい。
 歴代のハプスブルク皇帝が住んだホーフブルクは,最も古い部分が1220年建設。数々の建築様式を盛り込みながら700年も拡張を繰り返し,最後に作られた新王宮は1914年に完成しているという,複雑な王宮だ。まずは王宮庭園側から新王宮を眺め,その横を通り過ぎる。現在,ここには民族博物館,エフェソス博物館,武器博物館,古楽器博物館などが併設されている。

 新王宮の民族博物館側を歩きながら建物を見上げると,壁に施された首の彫刻が妙に生々しく見える。このほか壁にはメドゥサの首のようなモチーフも彫り込んであったが,何の紋章だろう。足元には,鉄格子付きの明かり取りの窓

王宮の観光馬車

 民俗学博物館を通り過ぎると,オイゲン公の騎馬像が立つ新王宮の迫力ある風景が広がっている。オペルンリングから新王宮前のヘルデン広場へ入る門には鷲の像
 私たちは広いヘルデン(英雄)広場を横切って,新王宮を正面から眺めながら,旧王宮を目指した。煙突がいっぱい立っているレオポルト棟は17世紀の建物で,前を馬車通っている。ここはウィーンの馬車のたまり場のはずだが,1台しかいないのはシーズンオフだから?

 レオポルト棟とミヒャエル門の間にあるイン・デア・ブルク(王宮内広場)にはフランツ2世(在位1792-1806)の像が立っており,ここは以前はフランツ広場と呼ばれていたらしい。
 37mのドームが目印のミヒャエル門は19世紀末に完成したもので,門の入り口両側の像はヘラクレス像。ヘラクレス12功業のうち4つをテーマにした像が,門の内側と外側の両脇を固めている。
 そして,この門をくぐるとローマ時代の遺跡が残るミヒャエル広場(Michaelerplatz)だ。ウィーンにはローマ皇帝マルクス・アウレリウスが亡くなったウィンドボナというローマの街があったのだ。周りを一周しながら中を覗き込むと,建物跡というこの遺跡は意外に大きく深かった。

 広場の正面に堂々とそびえる78mの塔はミヒャエル教会(St.Michaelerkirche)で,この塔は1590年に建設されたもの。教会自体は1220年から1250年にかけて造られた古い建物だが,内部はよく保存されており,中央祭壇背景にある堕天使群像は有名。最近はモーツアルトの死後5日目に追悼ミサがあった場所としても知られているようだ。この教会の下には4000体もの骨が埋まる地下納骨堂があり,見学もできるとのこと。

ミノリテン教会

ミノリテン教会

 ミヒャエル広場を出ると旧王宮沿いに北へ向かい,首相官邸(Bds.Kanzleramt)の横を通り過ぎ,ミノリテン広場(Minoritenplatz)を挟んで首相官邸の向かいに建っているミノリテン教会(Minoritenkirche)の外観を見学。
 ミヒャエル教会と同時期の1250年頃にフランチェスコ会修道士たちによって建設された古い教会で,欧州の大きな教会の常として,何度も手を入れられ今日の形に至っている。1316〜1328年に建てられた古い部分が今も一部残っているそうだ。この教会,手持ちのガイドブックには18世紀の詩人ピエトロ・メタスタジオの記念碑があることくらいしか記述がないが,大きく貫禄のある教会だ。

 しかしここで,ゆっくり観光しながらホテルへ戻る予定だった私たちの上に困った問題が浮上。そう,珈琲を飲み,最高気温-2℃という街で身体の芯から冷やしながら歩き続けているのだ…。お手洗いをどうしたらよいのだろう?! この上カフェなどに入っていては,あまりに時間がもったいない。
 ISETANで買ったお土産品などで荷物も多かったので,とにかく一度,最短コースでホテルへ戻り,用事を済ませて出直すことにした。おかげでウィーンに来ながらオペラ座と共にシュテファン大聖堂までも見学しないという,何だか非常に間抜けな事態が生じてしまった。

 ただひたすらホテルへ向かうのは腹立たしいので,移動は道々の風景を撮りながら。
 やはり興味深いのはビルの窓や彫刻で,どのビルも日本では考えられないほど凝っている。こう複雑な形をしていては建築コストも嵩むだろうと思うのだが,コストをかけてでもこういう建物を造るのがこちらの文化なのだろう。その割に街灯は,立派な支柱に支えられる日本の物と比べると電線にぶら下がっているだけで,美しいのだか貧弱なのだか分からない。

ショッテン教会

ショッテン教会

 ミノリテン教会を行き過ぎると,私たちは バンク通り(Bankgaße)を通ってヘレン通り(Herrengasse)へ出た。

 Bankgaßeと Herrengasseの交差点にはハラッハ宮殿(Harrach Palais)が,そしてそのまた少し先の交差点にはショッテン教会(Schottenkirche)とショッテン教会博物館(Schottenstift)がある。
 マリア・テレジア・イエローの時計塔が美しく目を引くこの教会は,1135年からウィーンを支配していたバーベンベルク家のハインリヒ2世(オーストリア辺境伯1141-1156/オーストリア大公1156-1177)が,1155年から建設を始めた由緒ある教会である。ハインリヒ2世は,1156年にへバーベンベルク家の居城をウィーンへ移動させオーストリア発展の基礎を作った大公としても知られ,妻のテオドラ,娘のアグネスと共に,今もこの教会の地下聖堂で眠っているそうだ。

 なお,ショッテン教会(Schottenkirche)の名はドイツ語でスコットランドを意味する Schottlandに由来する。これはさらにラテン語でアイルランドを意味する 小さなスコットランド = Scotia minoris が語源になっており,この教会がハインリヒ2世に呼び寄せられたアイルランド人修道士により建設されたことからこう呼ばれるようになったのだという。
 ショッテン教会博物館には17〜18世紀頃の絵画や古い家具などが展示されており,付属の売店ではショッテン教会グッズが手に入るとか?

 Herrengasseには Pizza Hutの案内があったが,スタバ同様,こちらもヨーロッパへ来て初めての発見。Herrengasseからリングへ出たところでは公衆電話を見つけたが,美しい建物群とは対称的に埃にまみれてまるで飾り気がないものだった。

ヴォティーフ教会

ヴォティーフ教会

 リングへ出ると,朝一番にバスで横を通ったヴォティーフ教会(Votivkirche)の荘厳な姿が見えてきた。朝は近すぎてよく見えなかったが,逆光ながらもようやく全景を見ることができた。1856年〜1879年に建設されたヴォティーフ教会は,フランツ・ヨーゼフ1世が暗殺を逃れたことに感謝し建設したものだという。

 私たちはヴォティーフ教会の手前のコリン通り(Kolingasse)を左折し,ここで進路を北東へと変えた。
 Kolingasseは広く短い通りで,路上駐車の車がいっぱい。突き当たりには Rossauer Kaserneという立派な建物が建っているが,これはかつての陸軍兵舎で,現在はウィーンの警察庁舎として使われているとのこと。Rossauer Kaserneの前のトラムが走るBörsegasse沿いには,シンプルで飾り気のない広告塔がポツンと立っていた。

 Rossauer Kaserneに突き当たったところで北へ曲がると,すぐにヴォティーフ教会へと続く大きな通り Hörlgasseが走っており,この道は一方通行になっているようだった。ウィーンでは,この一方通行の標識をよく見掛けたので,旅人が車で移動するのは大変かもしれない。
 Hörlgasseと Börsegasseの交差点を渡ると,私たちはそのまま Börsegasseのトラムと共に北上し,Porzellangasseという大通りを通ってホテルへ向かった。私たちのホテル HARMONIE WIENがある Harmgasseは車通りもない小さな道で,入り口に立っている広告塔が目印だ。15時半頃,ようやくホテルへ到着した。

ヴォティーフ教会前公園とウィーン大学

 朝は忙しくて時間がなかったので,ここで再び210号室からの window viewを撮影。電線にぶら下がっている街灯がよく見える。

 パソコンに写真のデータを移動させたりして一休みすると,16時頃から再びホテルを出て散策に。先ほどとは違った道を選んでヴォティーフ教会方面へと向かう。
 ホテルの近くには SPARがあり,シンボルマークも日本と同じなのに,彫像つきの美しい建物に入っているため,ブダペストで見掛けたマクドナルドのように高級に見えてしまう。路地には多くの店が並んでいるが,このようにどの店も建物の中にスッキリと入っており,看板も風景に溶け込んでいるため,日本の商店街のような雑多さはあまり感じられない

ウィーン大学前のリング

 ホテルを出て10分ほど歩くと,本日三度目のヴォティーフ教会。ホテルに一番近い観光名所でもあることだし,今度はちゃんと近づいてみる。
 ヴォティーフ教会の前の広い芝生の公園(Sigmund-Freud Park)へ入っていくと,ウィーン人がベンチに座って本を読んだりしている。寒くないのだろうか? 教会の入り口の一つは工事中のようで,教会の下には看板が多数。ちょっと趣に欠けるが,こんな立派な教会でもウィーンの数ある教会の一つで人々の生活の一部なのだということが感じられ,かえってすごい気もする。塔の先端に夕陽が当たって綺麗だ。

 公園に三脚を立てて記念撮影などを済ませた後,公園前の大学通り( Universitäts straße)のトラムの線路を横切り,ウィーン大学へ向かってドクター・カール・ルエーガー・リング(Dr.Karl Lueger Ring)を南へ
 ウィーン大学(Universität)は,ハプスブルク家がようやくオーストリアで受け入れられ始めた1365年に大公ルドルフ4世(在位1358-1365)によって建設されており,中欧ではプラハ大学(1348年建設)に次いで古い歴史を誇る大学だ。是非とも美しい学舎を眺めながらキャンパスを歩いてみたいと思っていたのだったが,しかし,残念ながら工事中。建物の外観は工事用カバーに覆われていて,リングからはほとんど見えない。カバーに覆われていないわずかな窓の下にライオンの彫刻が刻まれていた。

 少しだけ構内に中へ入って,工事されていないパティオから学舎を眺めて大学を後にする。まったく日本の多くの大学からは想像できない重厚な光景で,こんな大学だったらきっと誇り高い気持ちで勉強できるだろう,と他力本願なことを考える。

ウィーン市庁舎

ウィーン市庁舎

 ウィーン大学の前を通り過ぎて Dr.Karl Lueger Ringに沿って歩いていくと,リング沿いはずっと公園になっており,公園の中心,ブルク劇場の向かいに立派な市庁舎(Rathous)がそびえている。

 市庁舎の前へ来ると前の広場から音楽が聞こえ,色とりどりのスポットライトが光り,人々が楽しそうに集っているのが見えてきた。お祭りだろうかと近づいてみると,何と,野外スケート場だった。せっかくなので,台の上に作られたスケートリンクの方へ上ってみる。
 スケートリンクの上は,市庁舎側から伸びた色とりどりのライトで飾られ,時に演奏や催し物でもあるのかリンク中央には屋根つきの席が設けられている。迫り来る夕闇の中,スポットライトが美しく,よい雰囲気を醸し出していた。

 見回してみるが,貸しスケート靴があったくらいで料金所らしきものは見つからない。おそらく無料で滑れるのだろう。
 辺りは寒い冬を楽しもうとするウィーンの人たちの活気に溢れており,滑らないまでも,もし時間が許すなら出店で一杯飲みながら滑る人々を眺めてしばらくここで過ごしたところだ。スケートリンクを一周し,向こう側にブルク劇場が見えてきたところで,リンクを後にした。

 97.3mの塔を持つこの見事なネオゴシック様式の市庁舎は 1872年〜1883年にかけて建設された建物で,スケート場になっている広場は,クリスマスにはツリーが飾られ,夏にはコンサートが開かれる市民の憩いの場になっている。
 皆が集う広場を中心に作られる欧州の街。その一端を垣間見た気がした。

オーストリア国会議事堂

オーストリア国会議事堂

 市庁舎の建物の前を通り過ぎ,市庁舎前の公園を挟んでウィーン大学と対称を成すように建っている国会議事堂方面へ向かってライヒツラッツ通り(Reichsratsstraße)を歩いていく。市庁舎横のリヒテンフェルス通り(Lichtenfelsgasse)は,人影もなくひっそりとしていた。
 この道は国会議事堂の裏手にあたるが,日本の国会議事堂なら門の遙か彼方に見える建物を遠くから眺めるだけなのに,窓のすぐ横を通り過ぎることができるというのが何とも不思議。窓は大きく,寒い国らしく陽光を充分に取り入れられるようになっている。
 ふり返ると,夕陽を浴びる市庁舎の前に,国会議事堂横の公園の茂みがのぞいて見えていた。

 列柱が並ぶ国会議事堂はギリシア風の建築だそうで,Reichsratsstraßeからリング(Dr.K.Renner Ring)へ向かって曲がるとギリシア風の彫像が建物を支えていた彫像の後ろを通って正面へまわる。今思えば,前も見ておくべきだった(^^;。
 リングの向こうには,国会議事堂の向かいにある王宮のフォルクス庭園が見えてくる

 正面へまわっても,国会議事堂(Parlament)は玄関前まで立ち入り自由だ。国会議事堂の後ろには市庁舎の塔が見えており,議事堂の前には堂々としたアテナの像が立っている。逆光でよく見えないが,お決まりの屋根の上の彫像も,様々なものが並んでいる。
 アテナ像の後ろにまわると,控え目に建設の碑を見つけた。

フォルクス庭園

Dr.K.Renner Ring

 夕方からのツアーのスケジュールを考えると,そろそろホテルへ向かわなければならない時間がやってきた。来るときとは違う景色を見るために,帰りはリングの反対側を北上するのがよいだろう。私たちは国会議事堂前の Dr.Karl Renner Ringを横断し,リングを挟んで国会議事堂の向かい側にある王宮フォルクス庭園(Volksgarten)の前へ出た。

 フォルクス庭園は,ナポレオンによって1809年に破壊された17世紀の要塞跡地に,1823年に作られた庭園で,あちらこちらにベンチが据えられ薔薇の花が植えられている。王宮ゆかりの庭園と言えど,一般人が自由に出入りできるのはシェーンブルン宮殿の庭園と同じで感じよい。
 ガイドブックの写真を見ると非常に美しい公園なのだが,冬枯れ一色のこの季節,しかも日没近くのことだ。ただ寒いだけで,公園内の人々も散歩を楽しんではいるものの,ベンチでくつろいだりしている人は稀な存在。木々に囲まれているため庭園内は既にかなり暗くなっており,写真の撮りようもなく,ちょっと中を覗いただけで,私たちはすぐにリングへ出てしまった。

 フォルクス庭園の門を出ると,庭園前のリング沿いの歩道で面白いものを発見した。有料体重計だ。路上でコインを入れて体重測定するの? 謎な感性だ。料金は20セント? アメリカと違ってちゃんとSI単位系を使っているから,外国人にもありがたいね(^^;?

ブルク劇場

ブルク劇場

 フォルクス庭園を通り過ぎると,先ほど市庁舎から見たブルク劇場(Burgtheater)が目の前に現れる

 ブルク劇場は,1752年,マリア・テレジアによって王宮(ホーフブルク)横のミヒャエル広場に建設された劇場で,ブルク劇場という名もホーフブルクの近くにあることからつけられている。
 輝かしい歴史を持つブルク劇場だが,現在の建物は比較的新しく,1945年の戦災で崩壊した1888年の劇場を戦後に復元し,1955年に再開したものだ。正面円柱の梁部分に並ぶ胸像は,モリエールやゲーテ,シェークスピアなどヨーロッパの偉大な劇作家たち。

 先刻とは反対に,今度はブルク劇場側からリングの向こうの夕闇に没しつつある市庁舎を撮ってブルク劇場を後にする。
 そしてウィーン大学前まで戻ると,何やら立派な Denkmal(記念碑)が立っていた

 月桂冠を掲げた勝利の天使足元のライオンに守られたこの記念碑は,オスマントルコ軍のカラ・ムスタファ・パシャによる第二次ウィーン包囲(1683年)の時にウィーン市長だった Johann Andreas von Liebenberg氏(1627-1683)を記念して1890年に建てられたもの。
  ウィーンに生まれウィーンで没した Liebenberg(リーベンベルク)氏は,1678年〜1680年市裁判所で勤めた後,1680年から第二次ウィーン包囲の1683年までウィーン市長を勤め,防護壁建設の査察などを行い活躍。しかし,同年9月に亡くなったのだという。おそらく,オスマントルコからウィーンを守った英雄の一人なのだろう。

 記念碑の先のマクドナルドを通り過ぎると地下鉄の駅があったので,私たちは一旦地下へもぐって駅を見物。その後また地上に戻って,あとはひたすら歩いてホテルへ向かった。
 ホテル到着は17時半頃。しばらく日記を書いたりなど雑用を済ませ,18時,集合場所のロビーへ向かった。

シェーンブルン宮殿内のレストラン

夜のシェーンブルン宮殿

 集合場所で少々時間があったので,乾燥してガザガザになってしまった指先などに馬油を塗っていると,周囲にいた添乗員さんや同じツアーの人たちに話しかけられた。
 やはり彼女らも肌がボロボロになったり眼球が痛くなったりしているということで,肌が弱い私に限らず,ヨーロッパの乾燥した気候は日本人の肌にはつらいようだ。次回来るときは,スキンローションをたっぷり持ってこよう。

 さて,本日の夕食はシェーンブルン宮殿の敷地内にあるレストラン。宮殿の中にレストランがあるなんて日本の感覚では考えられない話だが,一般の人に部屋を賃貸しているくらいだから,レストランくらい当然だろう。
 メンバーが集まると,再びバスに乗って郊外のシェーンブルン宮殿を目指す。日が落ちて真っ暗になった街をスイスイ走り,30分ほどで到着だった。

 シェーンブルン宮殿は美しくライトアップされ,部屋にはところどころ灯りが灯っている。しかし,門は閉まっている? おそらくレストランを予約しているのだと守衛さんに言えば開けてもらえるのだろうが,肝心の守衛さんもいない。
 結局,添乗員さんが守衛さんを探し出して門は開けられたのだったが,お客もレストランも困るじゃないかと思うのは日本人の感覚で,ここではいつもこんな感じなのだろうか?

シェーンブルン宮殿内レストラン

 レストランは門を入って左手にある建物の一角で,入り口は少し分かりにくい。
 ドアを開いて入っていくと,シャンデリアに飾られた豪華なレストラン。さすがシェーンブルン宮殿の名に恥じない設備が整っているのだろう,このツアーで今まで入ったどのレストランより明らかに格調高い雰囲気だ。

 花とキャンドルで飾られたテーブルについて飲み物の注文をすると,まずはチーズとサーモンの前菜。メインディッシュはジャガイモと人参がたっぷり添えられたターキーで,デザートはホワイトチョコレートの花びらに入ったアイスクリームと洋酒に浸したスポンジ
 料理の内容の方も,今までのレストランの中で一番高級という感じだ。どの料理もお皿が二重になっていてお洒落に見える。

 このレストランでも水が出てきたが,同席した同じツアーの人によると,ウィーンの水はアルプスの雪解け水で水道代は無料なのだそうだ。添乗員さんの話では,多少石灰が含まれているので人によってはダメなこともあるそうだが,ツアーの人たちは皆平気のようだった。

シェーンブルン宮殿オランジェのコンサート

シェーンブルン宮殿オランジェ

 食後はウィーンにおける最後のスケジュール,シェーンブルン宮殿オランジェでのミニコンサート観賞だ。
 ウィーンのコンサートといえばドレスアップしなければならないのだろうかと緊張していたが,Gパンでも入れるカジュアルなコンサートだというので,私は昼間の観光時と同じ服装。

 レストランを出ると,一度宮殿の門を出て,外から直接コンサート会場へ入る。
 オランジェ(die Orangerie)はドイツ語でオレンジ栽培温室のことで,文字通り,昔,宮殿のオレンジの木を植える温室だった場所を会場に使ったコンサートである。

 帰りに混雑に巻き込まれるのは嫌だったのでコートを持ったまま会場へ行きたかったが,火事になったときのためにクロークルームにコートを預けるのは必須だそうで,ちょっと面倒。規則だし諦めて預けたが,身軽な夏なら面倒も少なくお金もかからず楽だろうと思った。もっともツアー料金が高いだろうが(^^;。

 渡されたチケットは,36ユーロのC席。
 しかし,入ってみた会場は綺麗で可愛くてあまりにも小さくて,C席だろうと何の問題もなさそう。
 さすが元温室だけあって窓が大きく,客席は,煉瓦の堅い床のに作った溝を使って一列に椅子を並べただけの簡易な造りだが,そこはかとなく優雅さが漂っている。

 コンサートの出演者は4名ほどで,全員まだ若い。こういうカジュアルな会場で経験を積んでいるのかもしれないが,おそらくレベルの高いウィーンで料金を徴収して舞台に立てるのは相当な実力者なのだろう。
 演奏は有名な曲ばかりで,例えクラシックに詳しくなくとも,歌もバレエも十分に楽しめる。せっかくウィーンへ来たのだから何某か音楽を楽しんで帰りたいという観光客には,まさにうってつけのコンサートだったと思う。
 疲れて眠くなければもっと楽しめただろうと思うと,少し心残りだった。

 コンサート終了後の会場をふり返って外へ出ると,もうすっかり売店も店仕舞いしていて,記念のパンフレットも買えなかった。日本と違って商魂たくましくないことを念頭に置いて,欲しいものは先に買っておくべきだった。
 案の定クロークは凄い混雑で,気長に並んでコートを受け取り外へ出た。

困ったホテル

 ホテル到着は22時半過ぎ。
 本当に疲れていたし,旅の後半に備えて少しでも早く休みたいところだったが,何とフロントに人がいない。呼び鈴を鳴らしても大声で呼んでもなかなか出て来ない。すぐそこに自分たちの部屋の鍵が見えているのに,勝手に取るわけにもいかないし,参ってしまう。第一,誰でも簡単に客室の鍵に手が届く状態でフロントを留守にするなんて,不用心ではないか?

 結局部屋に戻ることが出来たのは23時。
 その上,ボイラーが既に止まったのかお湯が出ないし,なかなかつらい夜だった。ウィーンの夜をコンサートで優雅に楽しみたいのなら,夜遅くてもフロントが開いていてお湯も出る,少し高級なホテルにした方が気分良く過ごせるのかも…。


ウィーン市のホームページ
●ウィーン関連 cool site:ウィーン今昔物語




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