中欧旅行記 ★ 中世が香るチェスキー・クロムロフ

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参考文献

ちょっとうんざり (2003-02-14)

 モーニングコール6時,荷物出し&朝食7時,集合7時55分,出発8時。
 昨日まではモーニングコール前に起きて支度を始めていたのだが,昨夜の就寝が遅かったこともあり,さすがに疲れてモーニングコールが鳴ってもなかなか起きられない。救いは朝食が少しゆっくりだということ。
 しかし,朝食メニューは昨日と全く同じで野菜は皆無。ま,栄養過多な食事が続いているので,調節になって丁度よいと思うことにする。

 その後,部屋に戻って出発の準備をしていると,掃除担当のメイドさんが鍵を開けていきなり部屋へ入ってきた。くつろいでいるところで,驚くと共にかなり不快。チェックアウトが終わっているかどうか,確認しないのだろうか。着替えの最中とかだったらどうするのよ?!

 しばらくすると,今度は冷蔵庫を使ったかどうかを確認する人がやってきた。自動的に把握するシステムはなく,自己申告も信用できないので現物を見に来るのだろうが,出発前の最後のひとときを台無しにされたようで何となく感じ悪い。
 日本とは違うのだからと納得すべきなのかもしれないが,昨夜お湯が出なくてシャワーで凍えそうになったこともあり,とても枕チップを置いて出て行く気分にはなれなかった。同じツアーの人たちに聞いてみると他の部屋ではここまでのトラブルは無かったようで私たちの運が悪かったのだと思うが,とにかく最初から最後まで,ウィーンのホテルは印象悪く終わってしまい,残念だった。

 ガラス戸を手動で開けて乗り込むオーストリア式エレベータの写真を撮ってホテルを出る。

ウィーンを後に

Mariahilfer str.

 バスへ向かいながら最後になるホテル周辺の風景を見渡すと,昨日は気付かなかった日本語の看板を掲げた店が目についた。オペラ座の前でもチケットを売っていたし,こういう店もあるし,ウィーンへは個人で来ても音楽チケットの調達に困ることはなさそうだ。

 出発は,昨日と変わってチェコの運転手さんのバス。
 トラムの道を横切り,昨日の朝も前を通った彫刻の美しい白い建物ハプスブルク家の馬小屋の前,そしてその隣の交差点を通り過ぎ,バスはドナウ運河の測道に出る。ブダペストからずっと一緒だったドナウ川とも,今日でお別れだ。

 ドナウ川沿いの道は開けた雰囲気で,スターバックス・コーヒーの店を見かけた。相変わらず装飾の華やかな建物が多く,片時も窓の外から目を離せない。カバンを持って歩いている男性は通勤途中だろうか? こんなに美しい彫刻を毎日眺めながら通勤できるなんて,幸せだと思う。どの建物を見ても宮殿のように見えてしまうのだが,こんな手の込んだ彫刻だらけのビルだって,多分,ただの集合住宅かオフィスビルなのだろう。出窓やベランダに植木鉢を並べて楽しむのは,どこの国でも同じなのだろうか? たまに飾り気のない建造物を見かけると,妙に懐かしい塔のある建物は学校か何か? ハプスブルク・イエローのビルが朝日を浴びて眩しく輝いている。

 道端に目を移すと,タクシー乗り場。直接タクシー会社に繋がる電話機とセットになっているようだ。日本の街にも要所にはこういう電話があるとありがたいかもと思う。
 道路に面した塀や壁には落書きをよく見かけるが,これは落書きの上の雪だるまの模様が可愛らしかったので撮っておいた。

オーストリア横断

メルク修道院

 車窓から美しいウィーンの街に別れを告げて,一路,南ボヘミアとの国境へ。
 バスは高架の高速道路に乗ってチロル地方方面へ向かっており,道路標識にはザルツブルクやリンツなどの都市への距離が書かれている。高速道路を走り始めると街の風景はだんだん途切れ,やがて,窓の外には郊外の大自然が広がってきた
 こうなると行けども行けども変わり映えのしない雪原で,たまに見かける広告塔の文字を見なければ,日本の雪景色と言われても分からない風景だ。

 しばらく行くと,遠方に目立つ立派な建物が見えてきた。何だろうと思っていると,添乗員さんが口を開いた。
 これはメルク修道院というベネディクト派の修道院で,ルイ16世の元へ嫁ぐためにオーストリアからフランスへ向かうマリー・アントワネットが1泊した所なのだという。
 現在の建物は,トルコ軍による破壊の後18世紀に改築されたもので,ハプスブルク家が材を投じて手を入れただけのことはあり,オーストリアのみならずヨーロッパのバロック建築の中でも特に秀でた建物らしいが遠くてよくわからない。65mの尖塔を持つ教会を取り囲む東西320mの建築物だそうで,遠方の道路からこれだけよく見えるのも,その巨大さゆえなのだろう。とりあえず,これが国境まで3時間ほどの雪景色の中で,唯一にして最大の見物になるものと思われた。

 メルク修道院を過ぎて更に40分ほど雪原を走り,トイレ休憩のドライブイン(Autobahnrestaurant Rosenberger)に到着した。新しく立派な施設で,トイレは美しく,公衆電話もあるし,売店や喫茶コーナーも充実している。私たちの他にも大勢の観光客でにぎわっていて,店内には中国人か台湾人と思われる団体もいた。
 トイレの前はちょっとしたくつろぎスペースになっていて,元気になる石の販売機?体重計が置いてある。昨日の夕方,ウィーンのフォルクス庭園前の歩道でも有料体重計を見かけたが,こちらの方々はこういう公共の場で体重を量りたがるものなのだろうか!?

ドライブ・イン

 休憩時間は30分ほどあったが,売店に並ぶ品々は豊富でバリエーションに富んでいるので見ているだけでもかなり楽しい。
 可愛らしいガーリックキーパー,ウィーンの伊勢丹にあったようなパン籠とランチョンマットリキュールや香辛料の瓶,日本のどこの観光地にでもありそうな名前のキーホルダー。そして,沢山のバレンタイングッズ。そういえば,バレンタインデーは今日だった。

 ハンガリーやオーストリアでは生水を飲むことができたが,チェコの水は飲めないという話だったので,この売店で水は買おうと思っていたのだったが,品物を物色しているうちに色々欲しくなってしまい,結局,水の他に陶器のナプキン立て(5.70ユーロ)と,モーツアルト印のチョコレート・リキュール(3.90ユーロ)をお買いあげ。水は,日本でもお馴染みのフランスの水,evianを売っていた。もちろんラベルはドイツ語だ。しかし,500mLが1.5ユーロ(195円)にはちょっと驚き。近くの国だからって安価で手に入るわけではないのね。

 買い物を終え,バスが待つ駐車場へ。寒いのに,運転手さんは既に扉を開けて待っていた。現地の旅程を手配してくれている旅行会社は Miki travel というようだが,今まで乗ったバスには各々 www の URL が書かれていたりするので,バスを動かしているのは Miki travel が契約している更に別の会社なのかもと思う。
 ツアーのメンバーが揃うまでバスの周囲をウロウロしながら待つが,辺りは一面の雪景色でアスファルトも凍っており,滑りそうで怖い。駐車場の端に,裸の枝に丸い繁みをつけた大きな木が生えていたが,これはヤドリギだろうか,それとも天狗巣病(^^;?

 バスの中へ戻ると,ツアーのメンバーと買い物の話に花が咲く。
 売店で珈琲を買えばオリジナルのマグに注いだものが出てきて,そのマグごともらえることを知って羨ましかったが,もう時間がない。咽も渇いていたし珈琲を飲みたいと思ったのに,ケチな私は我慢してしまったのだった。ほんと,旅先でケチは禁物ね!

チェコ共和国へ入国

チロルの雪原

 その後もしばらく高速道路をを西へ進み,山を超えてリンツの街から北の国境へ向かう。道路には時折電光表示板で気温が示されているが,ここでは-7℃。

 ドナウ川に沿って移動した,ハンガリーからスロヴァキア経由オーストリアへの旅に比べると,山の中を移動する今回の風景は単調。途中に景色を楽しむ街も少ない
 それでもたまに,煙を上げる工業地帯があったりするので急いでシャッターを切る。雪が深く,見かける集落は静かで人の気配も感じられない

 それでもドライブインを出て1時間ほど走ると,ようやく街らしき街が見えてきた倉庫ビルも,雪をかぶって輝いている。家並みが途切れたかと思えば,また民家が現れまた途切れる。やがて教会も見えてきた。広範囲に点々と続いていく家並みに,もしかしたら,これがオーストリア最後の街なのかもしれないと思う。
 そしてこの雪深い街を通り過ぎると,実に国境が待っていたのだった。

国境

 国境に着くと,まず税関でオーストリアで買い物した分の免税手続き。しかし,出国手続きの方はパスポートのチェックすらなくフリーパス。オーストリアのトイレは無料だがチェコに入るとトイレは有料になるというので,オーストリア側でトイレを済ませ,チェコの入国手続きへ向かう。

 しかしチェコ共和国への入国も同じようにフリーパス。出国でも入国でもスタンプ一つもらえなくて,滅多に来ることのない旅行者としては,少々寂しい国境越えだった。添乗員さんの話では,数ヶ月前までは並んで手続きをし,しかも袖の下が必要だったとのことで,EU加盟を目指してクリーンなイメージを心がけているらしい。

 国境のチェンジで,20ユーロをチェコ・コロナに換金した。手数料がけっこう高くて驚き。何度も換金するのは損だと思ったが,次回来る時にはチェコ・コロナは無くなっているだろう。
 チェンジの後ろには,ひっそりと珈琲の自動販売機。観光シーズンになると換金の列ができて,この自販機も活躍するのだろうか。

 さすがに国境を越えてすぐの雰囲気はオーストリアとそれほど違わないが,しばらく行くと,スロバキアからオーストリアに入った時と同じように,家並みの雰囲気が変化してきた。オーストリアは既にEUに加盟している裕福な国なのだということがここでもまたよくわかる。
 ところどころで,オーストリアにはなかった青空市のような店が開かれていたが,全て反対側の窓の方だったのでよく見られず残念だった。

初めまして,ヴルタヴァ川

チェスキー・クロムロフのヴルタヴァ川

 国境から30分ほど走って13時を過ぎた頃,綺麗な街並みが現れてきたなぁと思っていると,そこがチェスキー・クロムロフだった。ヴルタヴァ川上流,南ボヘミアの世界遺産の街へ降り立つ時がやって来たのだ。

 ドイツ語でモルダウと呼ばれるヴルタヴァ川は,チェコが誇る音楽家スメタナの交響詩《わが祖国》第二楽章《モルダウ》で,流れ行く様子がまるで目に見えるかのように旋律として表されている。モルダウ川の名の方が通っていると思うが,せっかくチェコへ来たのだから,ここではヴルタヴァ川と呼ぶことにしよう。
 南ボヘミアの森から流れ出したヴルタヴァ川は,オーストリアとの国境付近を東南に流れているが,やがて北へと向きを変え,大河となってプラハを通り,ボヘミア北部でエルベ川と合流する。チェスキー・クロムロフは,Sの字を描くように蛇行しながら北へ流れ始めたヴルタヴァ川に囲まれた高台に位置しており,“クロム”はドイツ語で“曲がる”を意味するのだという。

 1250年の城の建設に始まったチェスキー・クロムロフは,ヨーロッパの古い町らしい城郭都市で,城・街・教会が一体になった作り。ヴルタヴァ川に囲まれた島のような川辺の低地に旧市街があり,川を挟んでその向かいの断崖の上に城が建ち,領主と領民が向かい合う形になっている。旧市街と領主の住む地域を結んでいるのは数本の橋だけだ。

 南ボヘミア地方にはフス戦争の際フス派の拠点となった要塞都市ターボル(スメタナの交響詩《我が祖国》第5番にもなっている)もあり,プロテスタントであるフス派(1415年に殉教した宗教改革者ヤン・フスの教えに従った人々)の影響が強かったため,カトリック化されたプラハなどの町に比べるとルネサンス建築が多く見られる。
 チェスキー・クロムロフも,後期ゴシックとルネッサンス様式の建物が建ち並ぶ中世の町として,1992年にユネスコの世界文化遺産に指定され,以降,観光地として知られるようになってきたのだ。たが,世界遺産になると街に手を入れられなくなり,ここも京都と同じ悩みを抱えているらしい。

チェコで初ビール

レストラン

 城壁の外にある駐車場に降り立つと,昼の一番暖かい時間帯だというのにかなり寒い。こんな季節に訪れる観光客はほとんどいないらしく,駐車場はガランとしていてトイレも閉鎖されている。
 しかし,それにしても目の前にそびえる城壁は何という迫力だろう! 人工の建造物だなんて信じられないほど巨大で,山のようだ。超広角レンズを使わない限り全景撮影は不可能。
 この城壁の門 −実は門ではなくプラーシュチョヴィー橋という屋根付きの渡り廊下で,城を増築するとき,以前掘った溝の向こう側の土地とつなげるために作られたものなのだが− をくぐって,目の前に現れたヴルタヴァ川にかかる橋を渡り,旧市街へ入る。かなり上流になるヴルタヴァ川の川幅は狭く,水はとても澄んでいて冷たそうだ。

 旧市街へ入ると,まずは,おそらく MIKI TRAVEL 御用達と思われるレストランで昼食をとる。観光客向けの店なのだろう,チェスキー・クロムロフの街並みが描かれた内壁が独特の雰囲気を作り出す,とても凝った内装のレストランだ。
 テーブルは格子柄のクロスとキャンドル,オレンジの入った水差しで可愛らしくセッティングされており,この水を飲めないことが少々残念。テーブルに並んだ前菜はトマトとパプリカで,久しぶりの生野菜がとても嬉しい。メインディッシュは牛肉だったが,薄くてさっぱりしており,なかなかよい感じ。

 飲み物は,せっかくビールの国チェコへ来たのだから勿論ビールだ。
 チェコではジュースよりもビールが安く,小ジョッキくらいの大きさで100円以下。テーブルの上にはビール用のコースターが入った籠が置かれていて,自由に使えるようになっている。コースターは暑さ2mmほどの厚手の紙で作られていてかなり高級感があるものだ。チェスキー・クロムロフの名前と紋章も入っているので,思わず記念に一枚いただいた。



ホテル・ルージェ

ホテル・ルージェからの景色

 昼食を終えると,タイムスリップしたような街を抜け,まず最初に,部屋の調度品から従業員の服装まで中世のもので揃えているというホテル・ルージェ(URL)の駐車場へ向かう。チェスキー・クロムロフは,ここから眺めた風景が一番美しいのだそうだ。
 街中のどこを歩いていても,聖ヴィート教会の塔がよく見える。チェスキー・クロムロフは,第一次大戦終了当時の調査で住民の7割がドイツ系だったそうで,ドイツの古い街のような佇まいだ。

 ホテル・ルージェは坂道を登りつめたところにあった。かつての修道院学校を改造した建物ということで,見るからに趣がある。
 石を積み上げたように見える外壁は,ボヘミア地方でよく見かける騙し絵効果のあるスグラフィットという技法。土台の色を塗った上に石灰を用いた2色目を重ね塗りし,そこへ留めた下絵を針で突いて転写,最後に石灰部分を剥がして2色の絵に仕上げたもので,16世紀にイタリアから伝わった技法だという。

 私たちのツアーはチェスキー・クロムロフへ宿泊しないのでホテル・ルージェは眺めるだけで終わってしまったが,全ての従業員が中世の服装をし,客室の家具も中世風のものでまとめられ,中世を残すチェスキー・クロムロフを満喫できるホテルだとのこと。

 さて,目的のホテル前の駐車場だ。シーズンオフなので止まっている車も数台。広々としている。
 そして,目の前に広がるチェスキー・クロムロフの街並みは,正しくパンフレットでよく見かける風景そのままだ。なるほど,みんなここで撮っていたのね。
 高台の縁に位置しているため,眼下に見下ろすように街が広がっており,駐車場の前にそびえていたプラーシュチョヴィー橋も,街の一番向こうに見える。本当に,すぐに一周できてしまう小さな街なのだ。

チェスキー・クロムロフ旧市街

ホテル・ルージェからの景色

 一通り写真を撮って景色を眺めると,坂道を降りインフォーメーションセンターとなっている旧市庁舎のあるスヴォルノスティ広場へ移動し,そこでツアーは一旦解散。私たちはその足で聖ヴィート教会へ向かった。
 この教会はチェスキー・クロムロフの領主,ロジェンベルク家とシュヴァルツェンベルク家の墓石が置かれている教会で,教会の後ろに建つホテルは,1775年までイエズス会の神学校として使われていた建物。教会の中には自由に入ることができたが,撮影は禁止されており,残念ながら内部の写真は残っていない。

 その後,昼食をとったレストランの前を通って最初に急ぎ足で渡ったヴルタヴァ川の橋の方へ向かって散策。帰りは別の道を通るのでこの橋は渡らないと聞いて,もう一度しっかり見ておきたかったのだった。
 道すがらに壁に紋章の入った建物を発見。かつての住人の家紋か何かだろうか?
 町は本当に小さいので数分で川へ到着し,冷たそうな澄んだ流れと再会することができた。橋の向こうのプラーシュチョヴィー橋チェスキー・クロムロフ城が西日を浴びて輝いており美しい。

旧市街から見たチェスキー・クロムロフ城

 さて,どうしよう? この町へ立ち寄る目的は,ただ中世ヨーロッパの街並みを楽しむことだけだ。どこかをゆっくり見学するほどの時間的ゆとりもない。
 川を見て満足した私たちは,あてどもなくただ町をぶらつき始めた。石畳の細い路地スグラフィットの建物,そして頭に5つの星をまとった聖ネポムツキー像など,如何にもチェコらしい風景が次々と広がる。
 やがてひときわ華やかな雰囲気の建物が現れたと思ったら,それはエゴン・シーレ国際文化センター黄色い垂れ幕をつけた建物)だった。

 エゴン・シーレ(1890-1918)はウィーン北東郊トゥルンに生まれたオーストリアの画家だが,母マリエ・ソウクポヴァーの故郷チェスキー・クロムロフを第二の故郷と尊び,幾つもの風景画を残している。シーレはこの街の古い家並みやヴルタヴァ川,城の風景を愛し,人々も彼の絵を愛したが,やがて彼の絵はポルノグラフィーとして非難され,この小さな街から追放されていく。1918年のウィーン分離派展で初めて注目されたが,その数ヶ月後,第一次大戦終戦直前に,彼は妻と相前後してスペイン風邪に冒され28歳で早世したそうだ。
 この文化センターには,シーレの作品やシーレと同時代の画家たちによる絵,チェコの現代彫刻などが展示されているが,私たちは時間がなく,ただその前を通り過ぎた。

 短い時間を使って小さな町をひたすら歩きまわっていたのだったが,ボヘミアングラスやスワロフスキー・クリスタルの店の他によく見かけたのが木彫りおもちゃの店。こういうものが名産なのかどうかは分からなかったが,何件もあってウィンドウを覗くだけでも面白い。
 凍った石畳の道を歩き回っていたので,暖をとろうと数件の店に入ってみたが,昨今の日本ではあまり見かけなくなった素朴なおもちゃ雑貨品が並んでいた。

チェスキー・クロムロフ旧市街の路地

 かなり寒いが,幸いにして天気は上々,街のどこから見ても青空にチェスキー・クロムロフ城がよく映えると旧市街を隔てる冷たそうなヴルタヴァ川には水鳥も泳いでいた

 時刻が近づき集合場所のスヴォルノスティ広場へ向かって歩き始めたが,ここで一つ課題があった。お手洗いを探さなければならない。冬場は駐車場のトイレも閉まっているので,フリー観光の間に各自カフェなどで借りて済ませておくことと添乗員さんに言われていたのだが,この短時間の観光をカフェでつぶすわけにもいかないし,単にトイレを借りに用もない店に入るわけにもいかない。だが,ビールと珈琲を飲んだあと寒空の中を1時間も歩いていたので,チェスキー・クロムロフ城の観光前にどうしても一度行っておきたかった。
 スヴォルノスティ広場の一角にあるインフォーメーションに入ってみるが,トイレらしき物はなし。カウンターの女性に尋ねてみると,広場の向かいにある黄色い建物のホテルにパブリックトイレがあると教えてくれた。

 早速ホテルへ行ってみるとパブリックトイレはすぐわかり,トイレのついでにのぞけるような位置にボヘミアン・グラスの店が入っていた。観光客らしく立ち寄ってみると,さすがに美しい。ボヘミアに来るまでボヘミアングラスに興味を持ったことなどなかったくせに,突然タンブラーが欲しくなってきた。うーん,とりあえずここは我慢。。。
 ホテルを出ると,集合時間までもう少し余裕。既に添乗員さんが待機していたので広場の群像の前で一緒に写真を撮り,その後しばらく近くの路地を散策し,木製の電話ボックス街の名が入ったマンホールなどを探して旧市街での最後のひとときを楽しんだ。

チェスキー・クロムロフ城

旧市街から見たチェスキー・クロムロフ城

 ツアー皆さんと合流し,ヴルタヴァ川を挟んで旧市街の北に位置するチェスキー・クロムロフ城へ向かう。プラハ城に続いてチェコで2番目の大きさというだけあって,小さな旧市街から見た城は巨大だ。スグラフィットを施した塔と外壁がチェコらしい独特の雰囲気を醸し出している。

 一行は旧市街と城をつなぐラゼブニツキイ橋を渡って,続く坂道,ラトラーン通りを上っていく。途中には大きな旧ビール醸造所があり,さすがチェコという感じ。坂を上り,もと城主の紋章が入った大きな門をくぐると,美しいガラスの街頭の向こうに大きな月が昇っていた。
 ラトラーン通りはここで大きく弧を描き,カーブを曲がると目の前に赤門に守られた城が現れ,城の前のスペースには旧城下町の道標と城の地図。地図には40の建物と5つの中庭で構成されるチェスキー・クロムロフ城の詳細が描かれ,チェコ語と英語とドイツ語で説明されていた。

チェスキー・クロムロフ城から旧市街を望む

 入り口をくぐって城の内部へと入っていくが,冬は公開していないのでただ通路を歩くだけ。夏なら部屋の中にも入って見学できるらしいが,に包まれたこの静寂さは冬場だけのものだろう。
 外に寒々と陳列されている武器が冬場に見学できる唯一の備品のようで,やはり3カ国語で解説されていた。

 時代を追うごとに西へ西へと増築を繰り返して広がり複雑に繋がっている城を歩いていくと,壁の合間合間からヴルタヴァ川と旧市街見え隠れする。
 やがて,通路を抜けて駐車場の前にそびえていたプラーシュチョヴィー橋の上までやってくると,まさに絶景とも呼べるチェスキー・クロムロフ旧市街の全景が広がった。城を建て増しする際,建設当初に作られた城西側の溝に渡すために作られたのがこの橋で,三層式の屋根付きの渡り廊下になっており,壁のない1階部分からは旧市街が一望できるようになっているのだ。さきほど見学した聖ヴィート教会の十字架が遠く輝き,真下には自由時間に見に行った旧市街へ渡る橋,そして大きく蛇行し街を取り囲むヴルタヴァ川が視野を横切る。
 橋の反対側から下を見下ろすと,駐車場から町へ向かった道がよく見えた。

チェスキー・クロムロフ城

 プラーシュチョヴィー橋は第五の中庭へと続いており,橋の2階部分は仮面舞踏会の間と,第五の中庭に面するバロック様式の宮廷劇場を繋いでいるとのことだが,劇場のフレスコ画の天井も,夏に来なければ見学できない。

 橋を渡ると,我々一行は壁の向こうにチラチラと旧市街を見ながら,続く通路を通ってとプラーシュチョヴィー橋の先にあるもう一つの橋をくぐり,折り返すように城の外へと向かった。大庭園や乗馬場など,この先も城はまだまだ続いているのだが,もう時間がなかったのだ。
 庭園横の坂道を下りながら振り返ると,最初に渡った橋の向こうに町の最後の姿木立から見え隠れしていた城は,下るにつれて全貌を表していく。
 張り出した庭園に沿って城の外へ出たため,一旦通りまで降りた後,再び,道と城の間にある駐車場まで,城に向かって折り返さねばならなかった先ほど上から見下ろした道を通りながら今度は上を見上げたりして心ゆくまで城の表情を楽しみつつ,とうとうプラーシュチョヴィー橋のたもとへ帰り着くと,もう日はかなり傾いていた

北へ向かって

北へ向かう道

 チェスキー・クロムロフを出発すると,一路プラハに向かって本日二度目の大移動。オーストリアでドナウ川と別れ,今度はヴルタヴァ川と共に北上だ。最初のうちは明るく周囲の街並みが見えていたが,やがてすぐに荒野に入り,日も落ちて薄暗くなってきた。

 それから1時間15分ほど走って,コンビニエンス・ストアでトイレ休憩。コンビニの隣はマクドナルドで,遠くから目立っている。
 店内は,日用食料品からお土産用と思われるお菓子やキャビアの缶詰,雑誌におもちゃなどバラエティーに富んだ品揃え。ポケモンもどきのぬいぐるみまでおいてあった。キャビアの缶詰は激安だったが,添乗員さんによると,チョウザメではなく別の魚の卵だろうということ。こちらでは魚の卵のことをキャビアと呼ぶらしい。雑誌のコーナーにはチェコ語版の『ナショナル・ジオグラフィック』もあった。この雑誌,日本では少し大きめの書店に行かないと入手できないんだけどねぇ。

 コンビニを出ると,バスは暗闇の荒野をひた走って北を目指す。煌々と輝く月の明かりで,朧気ながら平原の中を走っていることがわかるものの,街灯ひとつ無い道は暗闇そのもの。北緯50度とあって,シリウスも高々と輝いている。
 そのままプラハのホテルまでノンストップの予定だったが,車酔いをした人が出て,バスはガソリンスタンドで一旦停車。10分ほど休憩することになった。せっかくなので,ガソリンスタンド見物?に外へ出てみたが,雪が深く,道路沿いにある価格表示案内板などには近づくことができなかった。旗立てのように見えるポールは,日本のガソリンスタンドのものとは形状が違うが,ガス抜きだろうか?

ホテル・ディプロマット

Hotel Diplomat 355室

 チェスキー・クロムロフ城を出て3時間半。プラハの街を通り抜け,最後の宿となる空港近くの Hotel Diplomat (URL) へ到着したのは19時40分頃だった。ホテル・ディプロマットは市の中心部から北西に4kmほど離れたところに位置しているが,地下鉄の駅 Dejvicka(ディビッカ)の目の前で,交通アクセスがよい。
 添乗員さんが手続きをしている間,ひとまずロビーで長旅の疲れを癒す。ディプロマットはこのツアーで泊まる一番よいホテルと聞いていたが,確かに広くて立派なロビーだ。ツアーも5日目に入って参加者もお互い顔を覚えたせいか,何となく和やかな雰囲気。

 我々の近くには,若い女性ペアKさんとHさんが座っていたので,待っている間に,Hさんがブダペストで買ってきてずっと大事そうに持ち歩いている木のおもちゃを見せてもらった。円盤の上に向かい合った4羽のニワトリ(?)が,振動を与えると頭を上下に動かし円盤の中心をついばむような絡繰りだ。なかなか素朴なおもちゃで,意外とよいお土産かも?

 鍵をもらうと一旦部屋へ荷物を置きに。さすがに中は広々としているが,ベッドはやはり小さめで,枕元には渋い絵が掛けられている。荷物置き場の上のオープンな洋服掛けが少し個性的?
 化粧室は普通の広さだが石鹸が入った小さな籠が可愛らしく,シャワーは狭いがシャワーヘッドがやたら高いところについている。日本人は小さいんだな(^^;。

民族音楽ディナーショー

ツィンバロム

 荷物を置くと,20時10分ロビー集合。再びバスに乗ってレストランへ向かう。ここでは民族音楽や民族舞踊を見ながらの食事が予定されており,明日の夜は自由行動なので,実質上,皆でいただく最後の夕食だ。

 バスを降りて奥まったレストランに入ると,今までの例に漏れず?中は薄暗く,既に音楽の演奏が始まっていた。
 楽団の人たちを眺めると,バイオリンやコントラバスに囲まれて,台に乗った不思議な楽器を演奏している人がいる。この立派に装飾された4本の脚がついた打弦楽器は,ピアノの祖先とも言われるダルシマーの一種,ツィンバロムというものらしい。台形の箱の中には金属弦が張られ,これを打って音を出す
 ツィンバロム以外はよく見かける楽器だが,奏でる音楽は西欧風とは言い難く,ジプシー音楽と呼ばれるジャンルに相当するようだ。こういう楽団が演奏するレストランはハンガリーにも多いとのこと。

民族舞踊

 テーブルの上には既に前菜が乗っていて,各席にはグラスに入ったチェコの薬用酒,ベヘロフカが添えられている。
 ベヘロフカは,ドイツ語でカールスバート。歴代の要人達に愛されたチェコの美しい温泉の街カルロヴィ・ヴァリで1805年に生み出された,日本の養命酒のようなリキュールだという。38種のハーブのレシピは門外不出で,現在も知っているのは二人だけ。チェコ国内のレストランで食前酒・食後酒として愛用されいるものだ。
 飲んでみると38度のアルコールが焼けるよう。スッキリした甘味があるが,私にはソーダで割ったりした方が飲みやすそうだった。

 やがて飲みの物の注文が始まり,チェコにいる間はビールと決めていた私はもちろんビールを頼む。飲んでみると,チェスキー・クロムロフのビールと同じように癖がない。
 予め添乗員さんから量が多いと聞いていたが,それにしてもこのレストランの食事のボリュームは,身体の小さい日本人には酷に思えるくらい。グヤーシュにも似た野菜たっぷりのスープに,メインディッシュはたっぷりとした肉料理
 始まった民族舞踊を見ながらゆっくり食べるが,なかなか食べきれない。

 その間も音楽はずっと続いていて,しばらくするとダンサーの二人が衣装替えをして再登場。1曲踊ると女性が我々の団体の席へやってきて,身振りで「一緒に踊れ」と言う。
 テンポの速いダンスで見ている方は面白いが,踊った人は酔いがまわってしまったとのこと。でも,日本人は,多少酔っぱらっていなくちゃダンスなんて恥ずかしくてできないかも?

 その後,今度はバイオリニストの男性がテーブルへやって来て,日本の曲をひき始める。わけのわかっていない私たちは,何だろう?サービスだろうか?…と思っているうち曲は終わり,男性はもう1曲奏で始めた。ちょっと困っている様子。
 なるほど,バイオリンにはお札が挟まれている。チップを渡すべき場面だったのだ。もう1曲終わったところで多めのチップを渡すと,男性は一礼して別の席へと演奏に行った。習慣の違いって,こういう時に難しいね。

 だめ押しのようにボリュームのあるアイスクリームを食べ,最後にエスプレッソを飲んで食事を終えたのは22時30分。昨日に引き続き遅い帰宿となってしまった。

チェコの水

 旅の道程も,残すところあと一日。乾燥した空気で肌はボロボロ,そろそろ疲れもたまってきた。

 湯船に水を溜めるのに時間を使うくらいなら少しでも早めに寝ようと,私はこの夜もシャワーを浴びるだけで済ませることにした。しかし,チェコの水の汚さは本当に噂通りだ。色が付いていて,とても溜めて浸かる気分にはなれない。スメタナの音楽を聴いていると,ボヘミアには澄んだ美しい流れが似合うのだけど(^^;?
 髪も水で洗い流すだけにして,お風呂の楽しみは帰国までおあずけ。早々に就寝したのだった。


チェスキー・クロムロフ市のホームページ




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