山鉾の一覧表

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祇園祭とは...

 京都に夏を告げる祇園祭の始まりは,疫病が流行した869年6月7日,災厄除去を祈るために行われた祇園御霊会(ごりょうえ)。その後11世紀になって鉾が登場し,さらに応仁の乱の後, 1500年に祭が再興され,現在のような様式へと定着していった。
 町衆自身が自らの自治組織により作り上げた祭であり,京都市民の精神の歴史とも言える。

(説明順は1999年の山鉾巡行順序)

地図

前祭(さきのまつり)の山鉾

長刀鉾

長刀鉾(なぎなたほこ) 四条通東洞院西入

 “鬮(くじ)とらず”として,毎年必ず山鉾巡行の先頭を行く。現在,生稚児が乗る唯一の鉾でもある。他の鉾には稚児の代わりに人形が乗る。鉾先には,疫病邪悪を払う長刀をつけている。
 長刀は,三条小鍛冶宗近が娘の病気の回復を祈願して八坂神社へ奉納したもので,その後,鎌倉時代にある武人に愛用されたが,不思議が連発したため返納された。大永二年(1522年)に疫病が流行ったとき,神託により長刀鉾町でこれを飾ったところ疫病は治まった。
 創建は,嘉吉元年(1441)説が有力。鉾の真木は20mあり,前懸と胴懸は18世紀の絨毯。
白楽天山

白楽天山(はくらくてんやま) 室町通綾小路下ル

 中国・唐時代の有名な詩人,白楽天が,道林禅師に仏法の大意を問うシーンを表現している。唐冠を付けた人形が白楽天,帽子(もうす)をかぶった僧の人形が道林禅師。
 天明や元治の大火の時に胴懸や人形の胴を失い,その度に復元を繰り返してきた。
 前懸は,トロイア城陥落を描いた16世紀の毛綴(タペストリー)。
占出山

占出山(うらでやま) 錦小路通室町東入

 神功皇后(じんぐうこうごう・新羅遠征説話の主人公)が,九州・肥前の国松浦で鮎釣りをし,戦勝を占ったという伝説に由来しており,釣り竿を持った人形は神功皇后の姿を表す。
 町衆に人気のあった山で,明治時代までは「あいわい山」という名で呼ばれていた。前懸と胴懸は日本三景を描いたもので,1991年に終了した胴懸の新調には十年の月日を費やした。水引は,在原業平など三十六歌仙を描いたもの。
 安産のお守りを授与する。
伯牙山

伯牙山(はくがやま) 綾小路通新町西入

 中国・周時代の琴の名人伯牙が,友人,鍾子期の訃報を聞いて,悲しみのため琴の弦を断ったという故事に由来する。斧を持って琴の前に立つ人形は,怒りの目と紅潮した頬を持ち,今まさに琴をうち破ろうとしている伯牙の姿を表している。
 明治に名前を改めさせられるまでは,“琴破山”(ことわりやま)と呼ばれていた山で,戦後に町会所が無くなってから,綾小路に面した杉本家の表の間をお飾り場にしている。前懸は慶寿裂の逸品である。
函谷鉾

函谷鉾(かんこほこ) 四条通烏丸西入

 “かんこぼこ”とも呼ぶ。中国戦国時代,斉の孟嘗君は,秦の昭王に招かれて宰相となったが,讒言によって陥れられ函谷関まで逃げた。しかし,関は鶏が鳴かねば開かない。そこで家来が鶏の鳴きまねをしてみると,辺りの鶏がそれに加わって刻を作ったので函谷関を通過できたという故事に由来する。
 鉾の真木は22m。鉾頭には三角形の白麻を張り,先端には三日月が上向きに取り付けられている。前懸は,旧約聖書の創世記の場面を描いた16世紀の毛綴で,重要文化財に指定されている。
霰天神山

霰天神山(あられてんじんやま) 錦小路通室町西入

 永正年間に京都が大火にあった時,急に霰が降って猛火は消えた。このとき霰と共に小さな天神様が降りてきたため,これを火除けの神様として祀ったことが由来。
 多くの山鉾が焼けた天明や元治の大火の時もこの山だけは残り,町の誇りになっている。火除けのお守りを授与し,宵山では子ども達が「雷(らい)よけ火よけのお守はこれより出ます...」と歌いながらその受付をする。
 山には檜皮葺きの社殿が乗っている。
四条傘鉾

四条傘鉾(しじょうかさほこ) 四条通西洞院西入

 祇園唐草模様の大傘に錦の垂(さがり)を飾り,また傘の上には御幣と若松を飾る姿は,応仁の乱以来の傘鉾の原形を伝えている。1988年に復元した踊りは,子ども8人が赤熊(しゃぐま)鬼面の棒振りなどを演じる。
 元治の大火の後も巡行に加わっていたが,明治5年以降,道具類もちりぢりになって消滅同然となっていた。1988年,117年ぶりに巡行に復帰。復帰の際,棒振り踊りは,滋賀県甲賀地方の“ケンケト踊り”が元になった。
蟷螂山

蟷螂山(とうろうやま) 西洞院通四条上ル

 “かまきり山”とも呼ぶ。からくりを施したカマキリが屋根の上に乗っており,カマを振りあげて動く。“蟷螂の斧”は,自分の力をわきまえずに大敵に立ち向かうことで,その勇敢さを賞した中国の君子の故事に由来する。
 町内の事情で明治初め以降巡行を止め前懸を売ったりしていたが,カマキリの乗る御所車が残っていたため,山の装飾類を新調し,1979年,百年ぶりに巡行へ復帰した。
菊水鉾

菊水鉾(きくすいほこ) 室町通四条上ル

 町内にあった菊水井戸にちなんで名付けられた。魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入り,甘菊の葉に滴った露を飲んで七百年生き続けている少年に出会ったという。
 1952年に88年ぶりに復興し,以降,年々装飾品を充実させている。鉾頭には天に向いた金色の十六菊をつけている。
孟宗山

孟宗山(もうそうやま) 烏丸通四条上ル

 “筍山”(たけのこやま)とも呼ぶ。中国・二十四孝の一人,孟宗が,雪の中,病気の母が欲しがる筍を探して歩き回り,とうとう掘り当てた姿を現している。孟宗の母は元気を取り戻し伝説となった。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町であったことから,この伝説が取り入れられた。
 竹内栖鳳の作品である見送は白綴地に墨一色で描かれた孟宗竹林図で,華やかな彩りの山鉾の中では一寸異色の存在だ。
山伏山

山伏山(やまぶしやま) 室町通蛸薬師下ル

 山に飾るご神体が,山伏の姿をしている。昔,八坂の塔が傾いたとき,法力によって直した山伏の姿を表している。前(さき)の祭の中では一番北の山。七月十五日には聖護院の山伏が参詣する。
 正面の水引は中国製で,雲中の竜・青海波・麒麟を刺しゅうで豪華に描く。見送も中国・明時代のもの。
郭巨山

郭巨山(かっきょやま) 四条通西洞院東入

 貧しくて母と子を養うことができない郭巨が子を山に埋めようとすると,土の中から黄金の斧が現れ,その後,母に孝養を尽くしたという中国の史話に由来する。鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ子の二体の人形を飾っている。
 山には普通屋根がないが,日覆障子を乗せている。胴懸は上村松篁筆の花の汀と春雪,後懸は桃山時代の屏風を原画にしたもので1991年に新調された。金地彩色宝相華文の板絵に古い形式を残す。
鶏鉾

鶏鉾(にわとりほこ) 室町通四条下ル

 中国・堯(ぎょう)の時代,天下がよく治まっていたため使われなくなった訴訟用の太鼓に,鶏が巣を作ったという故事に由来する。
 見送は,16世紀のベルギー製毛綴で,トロイアの王子が妻子と別れる場面を描いたもの。重要文化財に指定されている。
芦刈山

芦刈山(あしかりやま) 綾小路通西洞院西入

 摂津の国・難波に住む貧しい夫婦を語る謡曲「芦刈」が由来。貧乏のあまり妻は宮仕えするため都へ出るが,夫が気がかりで探してみると,落ちぶれて芦を売っていた。芦刈山のご神体は,妻に去られて寂しく芦を刈る老翁の姿を表している。
 ご神体の人形と衣装は,山鉾の中でも屈指の古さ。人形の頭には天文6年の銘が,小袖には天正銘があり,重要文化財に指定されているが,現在は最近作られた衣装を着ている。山の正面と側面には,芦の造化が飾られる。
綾傘鉾

綾傘鉾(あやかさほこ) 綾小路通室町西入

 大きな傘と棒振りばやしの行列。応仁の乱以前の古い鉾だが,元治元年の大火で焼け,明治十年代に一度復活したがまた中断。1979年に巡行を再会した。
 江戸時代には,徒歩から引き鉾に変化し,御所車風の屋根に風流傘が乗る古図が残っている。明治の復活の時に徒歩に戻り,現在も徒歩で巡行。鬼形の踊り手を中心に,赤熊をかぶった棒振りが,鉦(かね),太鼓,笛に合わせて踊る。
木賊山

木賊山(とくさやま) 仏光寺通西洞院西入

 世阿弥の謡曲“木賊”が由来。我が子を人にさらわれた木賊(とくさ=刃物を研いだりするのに使う草)刈りの老翁が,信濃国伏屋の里で,別れた愛児を想いながら木賊を刈る様子を表す。等身大の老翁像(ご神体)には,足台に元禄(1688-1704)五年の墨書銘があり,右手にかま,左手に木賊を持つ。
月鉾

月鉾(つきほこ) 四条通室町西入

 『古事記』によると,伊弉諾尊(いざなきのみこと)が黄泉の国から戻って禊(みそぎ)祓い(はらい)をした時,左眼を洗って天照大神(あまてらすおおかみ),右眼を洗って月読尊(つくよみのみこと),鼻を洗って素戔鳴尊(すさのおのみこと)を生んだ。夜と水徳の神であったこの月読尊が由来。
 鉾頭には,横40cm,上下24cmの金色の三日月をつけ,真木の中ほどの天王台の下には籠製の船が真木を貫いてとり付けられる。天王座に祀ってあるのは月読尊。元治の大火でも,真木を失っただけ。
 屋根裏の草花図は円山応挙筆,前懸のメダリオン絨毯は17世紀インド製,軒桁,四本柱などの飾り金具も豪華で見事。
油天神山

油天神山(あぶらてんじんやま) 油小路通綾小路下ル

 町名(風早町)の由来である公家・風早家の屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったものだという。朱塗りの社殿に天神を安置しており,山は,立派な朱塗りの鳥居が特徴。
 天神さんと関係深い紅梅が,松と一緒に立てられ華やかな雰囲気をかもしだしている。見送は近年新調されたもので,山所在地近くで生まれた梅原龍三郎画の富士山の絵をもとにした綴織り。
保昌山

保昌山(ほうしょうやま) 東洞院通松原下ル

 以前は“花ぬす人山”と呼ばれていた。武勇に和歌に才能を発揮した藤原大納言元方の孫,平井保昌は,恋する和泉式部に紫宸殿前の梅を手折ってほしいと頼まれて,一枝手折ったものの発見され,矢を放たれ,ようやく逃げ帰った。山は,保昌が紅梅を手折ってくる姿を表している。
 前懸と胴懸は,円山応挙下絵の逸品。縁結びのお守りを授与する。
太子山

太子山(たいしやま) 油小路通仏光寺下ル

 聖徳太子が,四天王寺を建立する時自ら良材を求めて山に入り,老人に大杉の霊木を教えられ六角堂を建てたという伝説に由来する。
 聖徳太子は日本の仏教の基を築いたため,宗派を越えて民衆に信仰されており,知恵のお守りが授与される。
 山鉾の真木は通常松が使われるが,この山のみ杉を立てる。山に飾る太子像は,江戸時代の作品で,トレードマークの鬟(みずら)に髪を結んでふっくらした顔だち。白二重小袖姿で,高貴な印象をたたえている。
放下鉾

放下鉾(ほうかほこ) 新町通四条上ル

 名前は,真木の中ほどの“天王座”に放下僧の像を祀るのに由来する。
 鉾頭は,日・月・星の三光が下界を照らす形を示し,形が洲浜に似ているため“すはま鉾”とも呼ばれる。以前は長刀鉾と同様に生稚児が乗っていたが,昭和4年(1929年)以降稚児人形に変えられた。稚児人形は,久邇宮多嘉王によって三光丸と命名され,巡行の時には稚児のように鉾の上で稚児舞いができるように作られている。
 新下水引は,華巌宗祖師絵伝を下絵にした綴れ織りである。
岩戸山

岩戸山(いわとやま) 新町通仏光寺下ル

 素戔鳴尊(すさのおのみこと)の乱暴に怒って天照大神(あまてらすおおかみ)が岩戸に隠れたため,世の中は暗闇となってしまう。困り果てた八百万神は河原に集まり対策を練り,常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ,鏡を鋳造し,五百個の勾玉をつくり,天香山の榊を立て,天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞って大宴会を行い,天照大神を招き出した。この天の岩戸の神話に由来する。
 曳(ひ)き山で,伊弉諾尊(いざなきのみこと),天照大神(あまてらすおおかみ),手力男命(だぢからおのかみ=天照大神を岩戸から引っぱり出した神)の三体のご神体が飾られる。
船鉾

船鉾(ふなほこ) 新町通綾小路下ル

 『日本書紀』に出てくる神功皇后の新羅出船が由来。屋形内に飾る神功皇后のご神体は,面を着け,頭には天冠,紺金襴の大袖,緋の大口, 緋縅(ひおどし)の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだことから,御神体に晒(さらし)を巻いて置き,巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する。
 現在の船鉾は,宝暦年間に計画され天保年間に完成したもので,舳先(へさき)に金色の鷁(げき)と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾り,船尾には飛龍文の舵を付けている。高さ1.3m,両翼端2.7m。

後祭(あとのまつり)の山鉾

北観音山

北観音山(きたかんのんやま) 新町通六角下ル

 応仁の乱の時代から,隣町の南観音山と1年おきに交代で山を出していた。元々かき山だったが,後に曳き山となった。
 山の上には楊柳観音像と韋駄天立像を安置する。鉾ではないので真木の代わりに松の木を立てる。この松は毎年鳴滝から届けられるもので,昔は尾長鶏が留まっていたが,現在は鳩が留まっている。見送は17世紀中国・明朝の紅地百子喜遊図で,飾金具も豪華。
橋弁慶山

橋弁慶山(はしべんけいやま) 蛸薬師通室町東入

 五条大橋の上,牛若丸がぎぼしの上に飛び上がり,弁慶は長刀を構えて戦っている姿を表す。人形は五百年も前に作られたもので永禄六年の銘がある。足駄の前歯だけで人形の体を支えるなど,高度な制作技術が伺える。
 山籠も真松もない屈指の古い山で,かき山で唯一くじ取らずであった。
役行者山

役行者山(えんのぎょうじゃやま) 室町通三条上ル

 修験道(しゅげんどう)の開祖である役行者・小角(おづぬ)が,一言主神を使って葛城と大峰の間に石橋をかけたという伝説に由来する。
 見送は,中国の唐美人図綴錦と龍図絽刺の2種類がある。また,掛け金具には黄道二十八宿の星座の図が描かれている。
八幡山

八幡山(はちまんやま) 新町通三条下ル

 石清水八幡宮を山の上に祀ったもの。八幡さんへの信仰が盛んだったため,八坂さんの祭にも登場するようになったのではないかと言われる。
 社殿は,江戸時代後期の天明年間に制作されたもので総金箔。鳥居の笠木の上には,八幡さんのシンボルである鳩が二羽,向かい合って留まっている。山の保存庫には江戸期の画家・海北友雪の祇園会山鉾巡行図が残っており,宵山には飾られ公開される。
鈴鹿山

鈴鹿山(すずかやま) 烏丸通三条上ル

 伊勢の国・鈴鹿山に人々を苦しめる悪鬼がいたが,これを退治した鈴鹿権現・瀬織津姫命を表している。瀬織津姫命は女人の姿で,金の烏帽子をかぶり長刀を持っている。
 胴懸は18世紀の中国・清朝時代の作品で,中国故事人物図。山に立つ松の木には沢山の絵馬が付けられており,巡行後,盗難除けのお守りとして授与される。
鯉山

鯉山(こいやま) 室町通六角下ル

 中国で,龍門の滝を上るとされる鯉の姿を表している。
 前懸・胴懸・水引・見送などは,重要文化財に指定されている16世紀の毛綴で,ホーロメスの『イリアッド』(イーリアス物語:トロイア戦争などを描く,前8世紀頃のギリシアの長編叙事詩。)の場面を描いている。
浄妙山

浄妙山(じょうみょうやま) 六角通烏丸西入

1180年,高倉宮以人王(もちひとおう)を奉じた源三位頼政が平家と宇治橋で戦った際,一来法師と三井寺の僧兵である浄妙坊は頼政に従って奮戦した。御神体は,一来法師が「悪しう候う浄妙坊」と声をかけて浄妙坊の頭上を飛び越え前に出る瞬間の,両者の姿をとらえている。
 町内で所有する鎧は,重要文化財に指定されている。
黒主山

黒主山(くろぬしやま) 室町通三条下ル

 歌人・大伴黒主が,桜の花を仰ぎながら眺めている姿を表す。
 ご神体は寛政元年の作品,前懸は中国の雲龍文綴錦。
南観音山

南観音山(みなみかんのんやま) 新町通錦小路下ル

 山の上に,北観音山と同じ楊柳観音像と脇侍の善財童子を飾る。
 見送は新しく,加山又造によって描かれた龍王渡海図。前懸は,以前は珍しいペルシア絹絨毯であった。

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