「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とか「失って初めてその価値が分かる」とか,物事の重要性を認識することについての慣用句や諺がいくつかある。「灯台もと暗し」とか「井戸を枯らして水のありがたさを知る」もその一例だろう。
人は忘れるし,人は気がつかない。
人は突然気がつき,また忘れる。
ベリーを失ってからそれを考えない日は一日たりともない。ベリーを思い出さない日などもちろん皆無だし,今でもほぼ一日中ベリーのことを考えている。ベッドの中で,讃美歌を歌ってベリーを見送った時のことを鮮明に思い出してとても眠れなくなることもある。
こんなにもベリーのことを考え続けているのに,ただ,ベリー本人に会えないってことだけが変わった。
そしてきっと思い出せることも減っている。
ベリーと過ごした最後のクリスマスは2021年だから,ベリーがいないクリスマスは今年が3回目だ。
最後の2年くらいは,「今年で最後になるかもしれないから」「最後にならないでね」って両方の気持ちを抱えてクリスマスにベリーにサンタ帽を被せて怒られていた。ベリーに怒られるのが幸せだった。ベリーはすっごく嫌がっていたけれど,かまわれているという点ではまんざらでもなかった筈だと思う。
ベリーと過ごした2021年12月。
これがベリーがいる日常だった。
このピンクの布を背中に乗せてベリーはよく歌を歌った。
この茶色の紐で,ベリーと綱引きをして遊んだ。
両方とも旅立つベリーに持たせてあげた。
よく思う。
ベリーがどんな風に生きていたかを一番理解したのはいなくなった直後だったのかもしれないと。ベリーが立てていたあらゆる音,ベリーが音を立てていた状況が,日常生活の一つ一つの場面で手に取るように脳内に溢れ出て思い出された。
その音がその状況で存在することが普通過ぎて,注意を払っていなかったのだ。
無くなって初めてベリーが立てる音がどれほど静寂から私を救っていてくれたかがわかったのだった。
2年半が過ぎて,静寂にもかなり慣れてきた。
ベリーの音は,どうあがいてももう聞けないのだから慣れるしかない。
だが思い出しながらこんなことを書いていると涙がボロボロ流れてどうしようもないのだ。
ベリーは幸せだったかなぁ。幸せだったと思ってくれていたら嬉しいなぁ。あぁ本当に会いたい,会いたい。
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