2022年7月4日。
ベリーがいない3回目の朝がきた。
早朝の静かすぎる部屋で,カレンダーを見つめた。
このカレンダーを貼ったとき,まさか2022年の後半はベリーがいなくなるなんて想像もしていなかった。
ふとみると,カレンダーの下の方に,ベリーが嘴でパンチを入れた跡がたくさん。
あぁベリーが生きた証だ。
私達の目を盗んでここでパンチを入れながら,ベリーはさぞかし楽しかったことだろう。目に浮かぶようだ。
新しい物を見つけるとすぐに嬉々としてパンチを入れにやってきたベリー。
「こら!」って言われることを含めて彼は楽しんでいた。
あぁもうそれも見られないし,パンチを入れられることもないのだ。
たまらなく寂しく,ベリーが生きていた1月とベリーがいなくなった7月が並んだカレンダーが悲しかった。
今年の元日。
2022年もベリーがいて,新しいカレンダーの前にいるベリーを撮れたことを喜んだ。なのに,これが新しいカレンダーの前でベリーを撮る最後になってしまったのだ。
カレンダーの前にベリーがいるのを見つけると,その年にベリーが一緒であった記念に写真を撮るようにしていたのだった。
何をしても頭の中はベリーでいっぱい。
一瞬もベリーを忘れて過ごすことができない。苦しすぎた。
なぜあんなことが起こってしまったのか。
私がもっと上手に的確に行動すればベリーを救えたのではないか。
いや,そもそも私の世話が良くなかったから,ベリーは某かの問題を抱えていたのではないだろうか。
自分を責める材料なら事欠かない。
ベリーにもう会えないという現実に加え,自分を責めることまでしてしまうため,心はボロボロ。何をしても楽しい気持ちになれそうにないし,楽しい気持ちになれる日が来る自信もない。
私が悲しそうにしているとベリーはいつも心配してくれた。きっとベリーは最期まで私を信頼してくれていたはずだ。そう思ってみても,とても気持ちは晴れなかった。
いなくなったベリーの代わりにベリーの思い出を飾ろう。
ベリーと一緒に過ごした羊毛フェルトのオカメインコを,先月作ったばかりのお人形に抱かせた。ベリーが生きている時間に作った最後のお人形になってしまった。お人形が出来上がった時に,もっとちゃんとベリーに見せてあげれば良かった。ベリーに見せた写真を撮っておけばよかったと,またしても後悔がつのる。ベリーは私がこのお人形の顔を描くところをずっと見ていた筈なのに。
ベリーは新しい物を見せてもらうのが大好きなオカメインコだった。
新しいお人形が来る度に見に来たし,宅配便で荷物が届けば,中身を見せろとギャーギャー言ってケージの端にへばりついて私の目を見て訴えていたものだ。
母が送ってくれた新しいクリスマス飾りも,わざわざケージから出てきて熱心に眺めていた。
まだまだベリーに見せたい新しい物はいくらでもあったのに。
あぁこの先私が生きている限り,新しい物を買う度にベリーに見せたかったと思うのだろう。
この日の私にできたのは,昔の写真を眺めてベリーを思い,くよくよすることだけだった。
ベリーは戻らないのだから,色々片付けなければならないのは分かっていたが,辛すぎて無理だった。
ピヨと答える声を聞けないのは分かっていても,一日中ベリーの名前を呼んでいた。
ベリーがいた時と同じように,ことある毎にベリーを呼び続けていた。
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