ベリーが逝って2週間が経とうとしていた。
空になったケージを見ながら私が毎日していたことは,19年近くの間に撮りためたベリーの写真に「berry」のタグをつけることだった。
毎日毎日,時間さえあればパソコンに向かい,NASに保存された2003年からの写真を何度も見返し,ベリーが写っている写真や動画,ベリーに関係がある写真を探しては悉くタグをつけ,その頃のベリーと私達の生活を思い出し懐かしんでいた。そういった作業に没頭していれば,二度と再びベリーと会えないという事実を考えないで済んだ。
タグをつけておけば,ベリーのアルバムが完成する。
是非ともやっておかねばならない作業だ。そして,ベリーがいない今,その作業を続けている限りベリーと一緒の時間が続いているような安心感もあった。
私が毎日ベリーの写真に明け暮れている間,夫はベリーの動画の抽出を行っていた。
ケージの上に設置していたベリー用監視カメラの中に奇跡的に残っていた,1年半くらい前の日常動画のサルベージ作業だった。
監視カメラはもともと留守中に外出先からベリーの様子を確認するために設けたもの。録画はしていなかった。
だが,試験的に録画した動画が少し残っていた。古くて壊れかかったファイルだった上に,ファイルは1分刻みに分かれており,確認作業はかなり根気を要するものだった。だが,朝起きてから夜寝るまでのベリーの定点観測。ベリーとの何気ない日常が記された貴重な動画だ。
私達はベリーとの日常の思い出を可能な限り救い出したかったのだった。
日常というものは,失った後に初めて真価を知るものだ。
その最中にいるときは雑事に紛れて流れてしまうし,普通のこと過ぎてわざわざ撮ったりしない。
それが自動的に記録されていたのだ。何てありがたいことだろう。
そうしてまた巡ってきた金曜日。
ベリーが逝って2週間。ほぼ半月が過ぎた。
分かっている。そろそろ,このケージを何とかしなければならないのだ。
さまざまな思い出の角度でケージを眺める。
ソファーから。
私がソファーで読書を始めると,ベリーは出てきて私のすぐ横のソファーの袖で寛ぎ始めたものだった。ベリーがそばに来てくれるのが嬉しくて,私はソファーで読書をしていたのだった。
ケージの扉を開いてみる。
毎日の掃除の時,この状態になると,ベリーは開いた扉によじ登った。最初はなかなか上手にできなかったが,そのうちさっさとよじ登れるようになり,扉の上からケージの上に出る過程を楽しんでいた。ほぼ趣味といった感じだった。
ケージの扉を開けて,私が小松菜を洗ったり水を交換するために小松菜を入れた容器を出して台所で作業をしている間に,ベリーは扉の上によじ登る。
私が台所の作業を終えてケージへ戻る頃には,ベリーは扉の上かケージの上で満足そうにしているのだった。
そんなベリーに毎度私は声をかけた。
「ベリーまた趣味やってるの?」
ベリーは得意げな顔をして,ちょっと翼を広げてぐるぐる回る。
今も,この扉の上に,あの時のベリーの満足そうな顔が見えるようだ。
このケージは2番目のケージだった。
ベリーを迎えた時に買ったケージを,2010年にこれに買い換えた。
ベリーはケージを買い換えても,引越前後にケージのサイズを変えても,全く気にせずに同じように過ごしてくれる子で,本当に助かったものだった。
親馬鹿なので,ベリーはとても賢く,ケージは変わってもケージである事に変わりはなく,自分の居場所であると理解してくれていたのだと思っている。
ベリーはケージを自分のテリトリー(部屋)の中のコアだと認識していたのだと思う。
いつもケージの周辺で寛いでいたし,外に出ていても最後には自らケージに帰って行っていた。ケージこそがベリーの居場所だった。
あぁしかし,そのベリーの最愛の居場所を処分しなければならないだろう。
そろそろ…この週末くらいには。
ずっと考えないように他の作業に逃げてきたが,そろそろ逃げてばかりもいられない。客観的に考えて,そろそろケージとお別れすべき時だと思う。
ベリーはどう頑張っても戻ってきてくれないのだから。
それは自然の摂理で確定していることだから…。
そんな気持ちの中,7月16日〜18日の三連休を迎えようとしていた。
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