最初の1ヶ月は毎日気を確かに生活するだけでやっとだった。
その後,忘れたくない最期の日のことや見送った日のこと,それに続く7月のこと等々を思い返して記録を始めた。
だが,1ヶ月前の気持ちを正確に思い出すのは難しい。
その時々でその時にしか分からない心のありようがあり,時間が過ぎればその機微は心の深淵に沈み込んで手が届かなくなる。
今日の私のことは今日の私にしかわからないのだ。
なので,今日は今のことを書いておく。
ベリーがいないこと,二度とベリーに会えないことを,私はまだ理解したくない。
それを思い出すと,未だ「信じられない!」と思って泣き崩れそうになってしまう。だってだってだって,逝く直前まであんなに元気で綺麗でやんちゃに楽しく暮らしていたのに,突然何が起こったの。何だったの…。
ベリーが生きていたときにそうだったように,毎日,一日中ことあるごとにベリーの名前を呼んで話しかけている。ベリーを思い出していない瞬間などないのではないかと思う。
姿は見えなくても,ベリーは私と一緒にいるのだ。見えなくても話しかければ聞いていてくれる,そう思って過ごしている。
この状態がこれからもずっと続いていくのではないかという気がしている。
ベリーがいなくなって家の中が汚れなくなった。ベリーの毛やベリーのフンやベリーの粉で家が汚れないことがとても寂しい。家の中をフワフワ漂うベリーのダウンが見えないのが寂しい。
私が何のために一日中音楽をかけていたかといえば,ベリーが小さくピヨピヨと合いの手を入れながら一緒に音楽を聞いてくれるからだった。だから一緒に聞いてくれるベリーがいないのに音楽を聞くのが寂しくて辛い。
一緒に楽しんでくれるベリーがいないから,この2ヶ月,電子ピアノも電子バイオリンも触る気持ちになれずにいる。
ベリーがいなくなって数日した頃からだったと思う。
頭の中でずっと,種とも子さんの「It Must Be Love」という楽曲が流れている。
なるほど,私の毎日は全部ベリーへの愛のせいだったのだ。それが分かった。
ご飯を食べるのも眠るのも洗濯するのも買い物に行くのもレジで並ぶのもトイレに行くのも,何もかもベリーへの愛のせいだったらしい。
全てから色が消えた。待っているベリーがいない日常への色の付け方がわからない。
悲しみと向き合うとき,誰かに聞いて欲しい人と,放っておいて欲しい人といるようだ。
私はどちらだろうか。
考えるだけで悲しいし,ベリーのことを誰かに話そうとすると苦しくて悲しくてそれだけで辛い。だから基本的には放っておいてほしいと思う。心配してもらっているのは分かるけれど,「落ち着いた?」みないなことを言われたら,落ち着くわけないじゃないか!放っておいて!と思ってしまう。
でも,鳥がどれほど心のより所になる存在かを知っている方とは話ができる気がしている。
ベリーは私が私で或ることの一部だったし,これからもそうなのだと思う。
ベリーを失ってこの方,ちょっと感じた違和感のこと。
鳥に限らず,亡くなったペットのことを「星になった」と表現する方が多いのは何故なのだろう。私は「違う!ベリーは星なんかになってない!」と思ってしまう。宇宙の最初からあった水素やヘリウム,ベリリウムやリチウムなどを除いた重たい元素はみんな星から生まれたし,太陽が終焉を迎える50億年後には太陽系の構成材料はみんな宇宙へ散らばり,やがてそれらが集まって新たな星になる日もやって来るかもしれない。けれど,亡くなったことを「お星様になった」と言われるのにはめちゃ違和感を感じる。
この表現,人間にも使う? 使うこともあるのかもしれないけれど,ほぼ聞かない気がするのだが,どうなのだろう。だとしたら,何故ペットには頻繁に使われるのだろう。
「お星様になる」ほどではないけれど,「虹の橋を渡る」という表現も何だか馴染めない。人間だと「三途の川を渡る」と表現するところが,対象が人間以外の動物だとこちらの表現が多用されるようになるような印象だ。単純に天国へ渡っていくイメージだろうか。
虹は,旧約聖書のノアの箱舟の物語では,神様からの契約の贈り物,神の愛の印ということになっている。この世から旅立つ命に与えられた神様からの祝福と考えれば,少なくとも「お星様になった」よりは納得しやすい気もする。
色々と理屈っぽくごちゃごちゃと考えてしまう。
この面倒くさい私にベリーはほんと優しくしてくれたと思う。
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