猫たちだけが屯する人気のない路地。
どこまでもとぼとぼと歩いていたら、
いつのまにか、
ケットシーの国へ迷い込んでいたりしないかな。
ねぇ?
猫たちだけが屯する人気のない路地。
どこまでもとぼとぼと歩いていたら、
いつのまにか、
ケットシーの国へ迷い込んでいたりしないかな。
ねぇ?
十月って,何故か人生の重要なことを色々終わらせた月。
だから,ジャックオーランタンが風に揺れる頃になるとちょっと寂しい。
でも陽気なカボチャたちを見ているとそんな気持ちも癒やされる。
2018年10月最後の夜を,ランタンの灯火で見送ろう。
最近はみんな略すのが好きだね。
ラジオから「シュウカツ」って言葉が聞こえてきて,今の私に関係があるのは「終活」だから,まずその文字を思い浮かべた。しかし,続く話題は「就活」だった。まぁよくある勘違いだが,何だかなって気分になった。えらく違います,この二つ。
終わるってこと。
寂しくて悲しいかも知れないが,もし「死」や「終わり」がなかったら,世界に詩人は生まれなかったかも知れないって誰かが言ってた。あぁそうかもしれないと,その時思った。
でも終わるってことはそんなに美しくない。
ここ十年以来の私は,終始「終わり」を見つめ,怯え,怯えても仕方がないから開き直り,開き直っていてもなお恐怖し,自分が死ぬ日までこれが続くのかとうんざりしている。若かった頃にこの状況は想像もできていなかった。想像しても,この現状へ行き着くことができなかった。
年齢,年を重ねるということには,やっぱりそれでしか補えない何かが加わるということなのだろうか。
認知症を「永い別れ」というらしいが,それを知ったとき,何と的を射ている言葉かと思った。
もう別れが始まっている,だって思い出を語り合うことすらできないのだ。
つい1時間前に一緒に食べたお料理の味について語り合えないし,昨日一緒に行った散歩の話もできない。
その瞬間の感情だけは共有できるけど,私はそれ以外のことをこれほど楽しんできたとは知らなかった。
でも,認知症でなくても,年を取るってことは「永い別れ」の途上なんだなと最近思う。
身体が弱る,気力がなくなる。
そうすると,頭はしっかり働いていても,返事をする気力がなくなる。
返事をしてくれない相手を前にして,別れが始まっていることを認めるしかないと思う。
別れを感じながら長い時間を過ごすというのは全くもって切ないものだが,有史以来全ての人々が通ってきた道なのだ。
あの世ってものがあればいいのにという想いは年と共に切実になるが,それは生きた人間の心の中だけにある。
あなたが逝ってしまった後のこと,私が逝ってしまった後のこと,次の世界で話せれば良いけれど,現状はちゃんと言えなかったお礼も感謝も永遠に届かない。
愛おしい過去は,だから切なくてやたら眩しい。
待っているのは美しくない未来。
せめて言えなかった感謝を少なく,今できることを滞りなく行って振り返らず進む。
全ては一期一会。
この雲も風景も。
今日の星空も。
そして今日の私も。
ね。
桜が散って花びらも消えて若葉が美しい。
季節の移り変わりの中で
時の流れにさらされ少しずつ風化し遠ざかる
かつて過ごした同じ季節の思い出たちを愛おしむ。
細部にはもやがかかり,断片だけが浮かび上がる。
痛みともどかしさと愛おしさ。
nostos(帰郷)+algos(心の痛み)というギリシア語の通り
ノスタルジアは色褪せたハイキー写真のよう。