さよならの朝

人間に聞こえる声を植物は発しないかもしれない。
だけど彼らは生きていて,色々なことを知っている。
沢山の植物たちの世話をしながら過ごしてきて,それは確かだと思っている。
彼らは世話をしている私のことを知っているし,
彼らは私がつくる環境の下でしか暮らせないことも知っている。

いつもそう感じてきたけれど,そう確信する出来事が起こったのは去年の秋だった。

13年の時を一緒に過ごしてきたイチゴの苗があった。
一時期は大きく何株にも育っていたけれど,いつの間にか最後のひと株になっていた。
少し窮屈すぎる鉢に植わっていたのが気になっていたけれど,
昨年の夏はトラックで2泊しなければならない過酷な引っ越しが待っていた。
だから,引っ越し先で落ち着いて涼しくなったら植え替えてあげようと思っていた。

イチゴは引っ越しを乗りきって生き延びてくれ,
私は涼しくなるのを待って少し大きな鉢へ植え替えた。
野の草の強さを持つイチゴは,本当ならすぐに根を伸ばし,冬に備えてくれるはずだった。
でも,植え替え後,いつまでも元気がないまま葉っぱを垂れていた。

大丈夫かな,大丈夫かな,早く元気を出して。
毎日毎日,私はイチゴの様子を見ては心配していた。
だけど,1ヶ月経ってもイチゴは元気を出さなかった。
土が合わなかったのだろうか。根を傷つけ過ぎたのだろうか。
何か私が失敗したんだね。ごめんねごめんね,どうしてあげたらいい?
毎日毎日,私はイチゴに話しかけた。

そして晩秋の足音が聞こえる十月末の朝,
植え替えて初めて,イチゴは大きく伸ばした葉っぱを私に見せてくれた。

どれほど安心したことだろう。
ああよかった,もう大丈夫だね。
そう言って伸ばした葉っぱを撮ろうとした。

だが,その時私にはわかったのだった。
大丈夫ではないのだと。
イチゴが私に最後の挨拶をしてくれているのだと。
どうしてかわからないけど,私にはしっかりとそれがわかったのだった。

間違いであってほしい。気のせいであって欲しい。
どうかこのまま元気を取り戻して欲しい。
祈るようにその日は何度も何度もイチゴを見に行った。
イチゴはその日一日葉っぱを伸ばし,私を見上げていた。

そして翌朝,葉っぱをたらしてゆっくりと色を失っていった。
冬の間中,諦めきれない私はもう地上部がなくなったイチゴの鉢に水をやり,
春に新芽をだしてくれまいかと淡い期待を捨てきれずにいたが,
とうとう春になってもイチゴは芽を出さず,私は別れを受け入れた。

あの秋の日のイチゴのサヨナラを,私は生涯忘れないだろう。

さよならの朝 (2016-10-23)

空の色は水の色 雲の色は水色

天然…魔法の言葉,天然。
類義呪文に自然って言葉もある。

天然の寒さから遮断され,
寒いはずの冬にコートを着込むのが不快になってしまう不自然な世界。
そんな世界で寝て起きて食べて飲んでいるから,
天然って貴重そうだし,自然って言われたら何か良さそうと感じてしまう。

いやいや危険な自然は多々ありますよ?
自然=良いなんておかしいでしょ。
原発の放射線は悪で天然の放射線は良いみたいな笑い話ね。
いやもうめんどくさい,危険な天然も自然だからいいんだよ。
死ぬのも滅びるのも自然だし。

水の色が本当は透明で,
水の表面は本当は鏡のようで,
映しだされた色が水の色で水色だとしたら。

閉じ込められた天然は,
水色のようにやっぱり少し薄くて a little lighter で,
何となく納得できるようなできないような。

2015.12.11

書架の前で

 私が育った地域では,12月24日は学校の終業式だった。
 学校はいつもよりかなり早めに終わるから,その後一人で本屋へ向かう。いつもは買えない高額な,といってもせいぜい2000円程度の天文書を,この日だけは買うことを自分に許す。14歳の頃から10年くらい続いたクリスマスイヴの習慣。何を買うか楽しみに楽しみに,何ヶ月もかけて本屋を巡ってあれこれ迷う。それがまた幸せだった。
 
 大きな本屋なんて2軒くらいしかない街だったから,人気のない特定の書架の前で何時間も佇む私は目を引く存在だったらしく,そんな日のあと学校へ行くと,私を本屋で見かけたという誰彼からの報告を何件も聞くことになったりしたものだ。
 だが,小さな街の窮屈な人目の中だったからこその楽しみもあった。数少ない本屋の決まったコーナーに何時間も立ち尽くしていると,同じ趣味を持った知った顔と偶然出会えたりすることがあったのだった。私は無表情に会釈をすることしかできなかったけれど,本当は,誰かと会えたらいつも凄く嬉しくて幸せで,そんな日は夜眠るまで心がぴょんぴょん跳ねていた。
 本は本の中の世界だけじゃなく,現実に私を誰かとつなぎ止めてくれる特別なアイテムだった。
 書架の前に佇む静かな時間が好きだったけれど,実のところ,週末本屋へ通うのも,昼休みに凄い勢いでお弁当を食べ終え図書館をうろついていたのも,半分は「本で繋がれる誰かと会いたくて」だったのだと思う。図書館で本をめくりつつ巻末の図書カードで知った名前を見つけると,偶然出会ったような気持ちになって嬉しかった。私は本で誰かと繋がれることを,静かに確かに繋がれることを,淡く切なく期待していたのだった。
 
 今や本は大抵電子書籍で買ってしまうし,書架の前に長々と立ち尽くす体力もない。大きな大きな東京の雑踏のただ中で知った人もない。
 でも,いつも行く小さな書店でやっぱり少しだけ期待してしまう。書架の迷路で懐かしい人の横顔が背表紙を見上げていたりしないだろうかと。もちろんそんな偶然が起こるはずもなく,本屋から出たときに吹き付ける木枯らしはいつもより少しだけ冷たい気がして,私は何となく空を見上げる。
 そして故郷とは異なる明るい冬空に,書架の幻想を発散させて歩きだす。

東洋文庫ミュージアムにて(2015-07)

お誕生日会は残酷だった。

 小学校2年生のとき,クラスでお誕生日会なるものが流行っていた。たぶん楽しそうで羨ましかった。友達は少なかったけれどいないわけでもなく,私もお誕生日会というものをしてみたくて,母に頼み込んだ。珍しく母は承諾してくれた。
 いつも一緒に登校し一緒に遊んでいた近所のショウコちゃんは当然呼ばれる対象だったけれど,インドアで友達が少ない私にとって他に誰を呼ぶかは微妙な選択。でも仲良くなりたかったヤスコちゃん,いつもちょっと気になっていたヤスコちゃんは間違いなく招待するつもりだった。
 
 なのに招待状を出すべき日が近づいたある日,母から聞いた。ヤスコちゃんのお母さんとたまたま出会った。ヤスコちゃんは私のお誕生日会に行くつもりでプレゼントを買って楽しみにしていたのだけど,ショウコちゃんに「あんたなんか呼ばれない」と言われて泣いていたと。
 青天の霹靂なんて言葉を当時は知らなかったけれど,まさにそれ。
 ショウコちゃんとヤスコちゃんの関係なんて私は知らない。
 
 その後一年も経たずにヤスコちゃんは遠くへ転校していって,それきり。更に数年後ショウコちゃんも転校していった。全ては終わった。
 だけど私はヤスコちゃんが私のために選んでくれた誕生日プレゼントのビーズの財布を,今も持っている。使わないけれど,死ぬまで大切に持っていると思う。
 そして二度と誕生日会はしなかった。もうたくさん。私に耐えられる行事ではない。私には似合わない行事なのだ。よくわかった。誕生日は一人でいい。人間関係を露呈し傷つけ合う日なんかにしたくない。
 
 ずっとそうして静かに年を取ってきた。

ヤスコちゃんのプレゼント

ホワイトライ

いいですか

ホワイトデーにお返しされる愛のほとんどは
ホワイトライ(善意のウソ)ですから!

相手の事を思いやった
悪気のないウソのことです

 絶望先生は言う。 (『さよなら絶望先生 第五集』より)

 まぁホワイトデーはどうでも良い。生まれてこの方バレンタインデーを無視し続けている私には関係のない話。ただタイムリーだったので引用してみた。

 できそうにもない人を励ますために「やればできる」と言ってみたり,似合いもしないのに「お似合いです」と言ってみたり,プレゼントをもらって迷惑だったけど「嬉しかった」と言ってみたりする善意の嘘。
 確かにある程度,ホワイトライなるものは必要だ。場を保つために必要なこともあれば,商売に必要なこともある。ほぼ100%が嘘だったとしても,それは人間関係の潤滑油。時と場合によってはマナーになるし,この潤滑油を意識せずとも上手く使いこなせることは生きていく上で重要なスキルだろう。

 しかし,しかしだ。ホワイトライの垂れ流しに心底イライラしている場面がある。
 報道を目的としたニュース番組,例えば19時から始まるNHKのニュース等で,事件や事故の被害者について友人や知人が語る「印象」や「思い出」など。実にイライラする。報道時間の無駄遣いだ。
 事故や事件に巻き込まれて人が亡くなり,周囲の人がそれを無念に思い,悼み悲しむのは当然のこと。死者にむち打つようなことはしないのが日本の文化だから,例え心の中で被害者のことを嫌っていた人であろうと,彼・彼女の美点だけに焦点を当て,またと現れないような素晴らしき人材を亡くしたかのように語る。通常の感性を備えた人ならテレビカメラに向かって被害者の悪口など語るはずないし,よもや語ったところで編集でカットされる。こういうインタビューは,まるで濾過された液体のように混じりけのないホワイトライだ。

 悪いが,そんなもの「報道」ではない。

 被害者の素晴らしき行いや性格が事件や事故に巻き込まれた原因であるなら話は別だが,そうでもない限り,お悔やみの一言がアナウンサーからあれば十分だろう。ホワイトライに使う時間があるなら,ぜひ他の報道に費やして頂きたい。
 もしどうしてもホワイトライの垂れ流しをやりたいというのであれば,ワイドショーが担当すべきだと思う。それなら文句はない。そもそもワイドショーとはそういったものなのだから。歴としたニュース番組でやる内容ではない。ワイドショー的要素でも織り交ぜないとニュース番組を見る視聴者などいなくなるだろうと人を馬鹿にしているのか,テレビ局は。

絶望した!