濃くなってゆく夕闇の中で

 最近はみんな略すのが好きだね。
 ラジオから「シュウカツ」って言葉が聞こえてきて,今の私に関係があるのは「終活」だから,まずその文字を思い浮かべた。しかし,続く話題は「就活」だった。まぁよくある勘違いだが,何だかなって気分になった。えらく違います,この二つ。

 終わるってこと。
 寂しくて悲しいかも知れないが,もし「死」や「終わり」がなかったら,世界に詩人は生まれなかったかも知れないって誰かが言ってた。あぁそうかもしれないと,その時思った。

 でも終わるってことはそんなに美しくない。
 ここ十年以来の私は,終始「終わり」を見つめ,怯え,怯えても仕方がないから開き直り,開き直っていてもなお恐怖し,自分が死ぬ日までこれが続くのかとうんざりしている。若かった頃にこの状況は想像もできていなかった。想像しても,この現状へ行き着くことができなかった。
 年齢,年を重ねるということには,やっぱりそれでしか補えない何かが加わるということなのだろうか。

 認知症を「永い別れ」というらしいが,それを知ったとき,何と的を射ている言葉かと思った。
 もう別れが始まっている,だって思い出を語り合うことすらできないのだ。
 つい1時間前に一緒に食べたお料理の味について語り合えないし,昨日一緒に行った散歩の話もできない。
 その瞬間の感情だけは共有できるけど,私はそれ以外のことをこれほど楽しんできたとは知らなかった。
 でも,認知症でなくても,年を取るってことは「永い別れ」の途上なんだなと最近思う。

 身体が弱る,気力がなくなる。
 そうすると,頭はしっかり働いていても,返事をする気力がなくなる。
 返事をしてくれない相手を前にして,別れが始まっていることを認めるしかないと思う。
 別れを感じながら長い時間を過ごすというのは全くもって切ないものだが,有史以来全ての人々が通ってきた道なのだ。

 あの世ってものがあればいいのにという想いは年と共に切実になるが,それは生きた人間の心の中だけにある。
 あなたが逝ってしまった後のこと,私が逝ってしまった後のこと,次の世界で話せれば良いけれど,現状はちゃんと言えなかったお礼も感謝も永遠に届かない。
 愛おしい過去は,だから切なくてやたら眩しい。

 待っているのは美しくない未来。
 せめて言えなかった感謝を少なく,今できることを滞りなく行って振り返らず進む。

櫻井大神宮にて

三月、皇居のお堀にて。

東京で迎える最後の春だから、
皇居に桜を見に行った。

去らねばならない。
大好きで大好きな東京を。
たくさん泣いて諦めた朝。
根無し草の人生だもの、
わかってたこと。

白鳥の白はまぶしくて、
美しくて清らかで悲しくて。
時が止まってくれたら、
このまま白鳥の白に溶け込めたら、
東京を去らずに済むかしら。

また泣いてしまいそうだから、
浮かび上がる思考の群れを押し戻し、
何回も何回も、
流せぬ涙の数だけシャッターを切った。

2016-03-27
2016-03-27

消えゆくためのいとなみ

時の流れは優しいだろうか。辛い一面ばかり見る一年だった。

そんなことを言っても仕方がないのだ。
全ては時の流れにさらされ風化してゆく存在。

だけど私は悟ることもできず、いつもいつも、
ただひたすら時の流れを怨み、ただただ苦しみに耐えている。

かつて輝くように大切だった何かは今になって台無しにされ、
あるいは惨めに哀しく衰えてゆく。

胸を突き刺され息もできず喘いでいるのに、
何が何でも見据えて受け入れろ、こんなの序の口なんだよと、
時は淡々と宣告する。

そうだよわかっている。
澱まず流れ去る時の旅は後半になるほど辛くなるだろう。

耐えられそうにないから、もうここいらで退散させてください。

誰に願っても叶えらることはない、空しき願いを心に描き、
行き場のないやるせなさに対抗する手段を探しまわり、
結局はただそっぽを向いて、ため息をつく。

何もかも奪われたら、いつかこの世に未練もなくなるだろう。

時の向こうの朝

金木犀も香らないこの街で

金木犀も香らないこの街で
わたしはひたすら彷徨い歩く。
記憶の中の過去の日を。
記憶の中の青い空を。
記憶の中の冷たい空気を。
 
金木犀も香らないこの街で
わたしはひたすら心を閉ざす。
記憶が零れないように。
記憶が色褪せないように。
記憶に埋もれて心が崩れないように。
 
金木犀も香らないこの街で
わたしはひたすら待っている。
いつか帰れる日を。
いつかどこかへ帰れる日を。
いつか帰りたいと思わない日を。

2015.10.03

窓の向こう

別れるのは苦手だ。人とも物とも過去とも。

いくら「出会うは別れの始め」が世の理であっても、
現実の別れを目前に少しも慰めにならない。

潔く別れを受け入れられないから、
一縷の希望を見いだそうと「またね」と言って現実から逃避する。

だが一方、
「さようなら」は日本の諦めの美学が結晶した美しい言葉であるとも思う。
そうならねばならぬのなら、左様ならば、別れよう。

長い間そうやって、日本人は自然の流れを受け入れ、
そこへ身をゆだねて暮らしてきたのだ。

英語話者なら、
good-by「神と共にあれ」と言って別れるところだろう。

八百万の神々がそこかしこに存す日本人にとって、
自然も衣食住も産業も何もかもが神々と一体。
神は共にあれと願う存在ではなく共にいる存在で、
出会いも別れも神々が宿る現象だったのだろうか。

ここ数ヶ月、たくさんの別れを立て続けに見送ってちょっと心が折れそうだった。
いま、窓の向こうは現実になった。

左様なら窓の向こうへ