今はただ

 吐き気も治まったし健康だ。
 ちょっと余震が来ると地震酔いが復活するけれど、もうそれほど酷くない。
 予定が色々狂ったけれど、それは仕方がない。今はほぼ今まで通り。
 それなのに、あの日からずっと、私はクリエイティブなことをする気力が無い。
 もともと怠惰な奴ではあったけど、
 地震を理由に更にとんでもない怠け者になってしまったのだろうか。
 テレビなどで地震報道を見ると気持ちが悪化するので、そんなのは見ていない。
 静かに音楽を聞いたり、陽気なアニメを見たり、楽しく過ごしている。
 しばらく身体が欲さなかったお酒も、最近では美味しく飲めるようになった。
 それなのに、気力が出ない。言葉も紡げない。

 17年前、大阪で阪神淡路大震災を経験した。
 あの時は病気で高熱を出していて、私生活も最悪だったが、
 精神的には終始元気にやり過ごした。気力もあった。
 まさかあれより怖い地震に遭うとは思わないほど揺れたけど、後遺症は出なかった。
 あれより遙かに怖い、生まれて初めて本当に怖かった地震だったけど、ここは東京。
 東北地方太平洋側よりずっと被害も揺れも小さいのに…。
 本人も理解できない心の奥底で、
 何か解決できない漠然とした不安があるのだろうか。
 何が何だか分からないまま、ひたすらダメダメな私。
 今はただ、ぼんやりと一日をやり過ごす。
 二度と来ない今日という日よ、ごめんなさい。ごめんなさい。

ひといき

うるさい

事実だけを淡々と報道してくれるマスコミはないのか。
感想も脚色も要らない。鬱陶しいだけ。
正義ぶった質問もやめてくれ。人の話を聞いていないのか。

情報が必要,今回はネット以外からも集めたい。
だからテレビを見てみるが,イライラするだけだ。

ホワイトライ

いいですか

ホワイトデーにお返しされる愛のほとんどは
ホワイトライ(善意のウソ)ですから!

相手の事を思いやった
悪気のないウソのことです

 絶望先生は言う。 (『さよなら絶望先生 第五集』より)

 まぁホワイトデーはどうでも良い。生まれてこの方バレンタインデーを無視し続けている私には関係のない話。ただタイムリーだったので引用してみた。

 できそうにもない人を励ますために「やればできる」と言ってみたり,似合いもしないのに「お似合いです」と言ってみたり,プレゼントをもらって迷惑だったけど「嬉しかった」と言ってみたりする善意の嘘。
 確かにある程度,ホワイトライなるものは必要だ。場を保つために必要なこともあれば,商売に必要なこともある。ほぼ100%が嘘だったとしても,それは人間関係の潤滑油。時と場合によってはマナーになるし,この潤滑油を意識せずとも上手く使いこなせることは生きていく上で重要なスキルだろう。

 しかし,しかしだ。ホワイトライの垂れ流しに心底イライラしている場面がある。
 報道を目的としたニュース番組,例えば19時から始まるNHKのニュース等で,事件や事故の被害者について友人や知人が語る「印象」や「思い出」など。実にイライラする。報道時間の無駄遣いだ。
 事故や事件に巻き込まれて人が亡くなり,周囲の人がそれを無念に思い,悼み悲しむのは当然のこと。死者にむち打つようなことはしないのが日本の文化だから,例え心の中で被害者のことを嫌っていた人であろうと,彼・彼女の美点だけに焦点を当て,またと現れないような素晴らしき人材を亡くしたかのように語る。通常の感性を備えた人ならテレビカメラに向かって被害者の悪口など語るはずないし,よもや語ったところで編集でカットされる。こういうインタビューは,まるで濾過された液体のように混じりけのないホワイトライだ。

 悪いが,そんなもの「報道」ではない。

 被害者の素晴らしき行いや性格が事件や事故に巻き込まれた原因であるなら話は別だが,そうでもない限り,お悔やみの一言がアナウンサーからあれば十分だろう。ホワイトライに使う時間があるなら,ぜひ他の報道に費やして頂きたい。
 もしどうしてもホワイトライの垂れ流しをやりたいというのであれば,ワイドショーが担当すべきだと思う。それなら文句はない。そもそもワイドショーとはそういったものなのだから。歴としたニュース番組でやる内容ではない。ワイドショー的要素でも織り交ぜないとニュース番組を見る視聴者などいなくなるだろうと人を馬鹿にしているのか,テレビ局は。

絶望した!

不可逆の途

  二度と戻ることは叶わない
  だけど行く

  一歩一歩が胸を刺す
  だけど行く

  さようなら さようなら さようなら
  ありがとう

途