夜明け

夜を抜け、カーテンを開ける。 

雲が茜色をたくわえてゆくのを見ながら、
新しい一日の誕生と自分の心を同化する。

旅先のように見知らぬ風景が、目の前で真珠色の輝きを増していく。

引っ越して初めての夜明け。
何度こんな朝を迎え不思議な気持ちを噛みしめたことだろう。

この街はわたしを受け入れてくれるだろうか。
この街でわたしは楽しく暮らせるだろうか。
この街をわたしは愛せるだろうか。

不確定すぎる未来への一歩を、この街は助けてくれるだろうか。

希望も不安も飲み込んで、
ただこの街で沢山の朝を愛してゆこうと心に誓った。

別れるのは苦手だ。人とも物とも過去とも。

いくら「出会うは別れの始め」が世の理であっても、
現実の別れを目前に少しも慰めにならない。

潔く別れを受け入れられないから、
一縷の希望を見いだそうと「またね」と言って現実から逃避する。

だが一方で、
「さようなら」は日本の諦めの美学が結晶した美しい言葉であるとも思う。

そうならねばならぬのなら、左様ならば、別れよう。

長い間そうやって、
日本人は自然の流れを受け入れて、
そこへ身をゆだねて暮らしてきたのだ。

英語話者なら、
good-by「神と共にあれ」と言って別れるところだろう。

八百万の神々がそこかしこに存す日本人にとって、
自然も衣食住も産業も何もかもが神々と一体。

神は共にあれと願う存在ではなく共にいる存在で、
出会いも別れも神々が宿る現象だったのだろうか。

今はもう、窓の向こう。

巡る時の中で

切れなければ。
ほんの少しでも繋がっていれば、
縁はいつか巡ってくることもあるだろう。

だから無縁なんて言わないで。
言わないで。

心で泣きながらのぼった無縁坂。

縁を求めて無縁坂

いつかまた時の向こうで

寂しくないから期待はしない。
居場所がないなら帰らない。
遠いなら忘れよう。
記憶なんて負担なだけだ。
 
そう思ってやってきたのに。
それが生きるすべなのに。
たまに現実は裏切るね。
ごくたまに。
 
だからたぶん明日も生きる。

いつの日か時の女神の微笑みを

春は咲き

凍り付いた心を頑なに閉じ
怒りも悲しみも感じないひとになりたかった
 
それらを封じ込められるなら
喜びも楽しさも死ぬまで捨てていい
 
なのに解けていく
性懲りのない心は忘れてしまう
 
あの日の涙も痛みも何もかも
 
世界を満たす明るい桜色
わたしを解かさないで忘れさせないで
 
悪魔の心を閉ざせるならば
いっそ凍り付いたまま苦しんでいたい
 
春は咲き

悲しいほどに今年も咲いて散ってゆく。