垂れ込めた黒い雲
辺りを満たす冷気の香り
大地を濡らす雨の滴
そんな朝にはマーラーを聞く
交響曲第5番嬰ハ短調
ムーン・ショット
アメリカ初の有人宇宙飛行を目指すマーキュリー計画の宇宙飛行士として選ばれた7人をマーキュリー・セブンと呼ぶが、このうちディーク・スレイトンとアラン・シェパードを中心に、マーキュリーからアポロへ至るまでに関わった様々な人物の物語及び多くの計画や事件などを、軽快かつ詳細に描いたドキュメンタリー。実際に執筆しているのは2人のジャーナリスト、元AP通信宇宙開発担当記者ハワード・ベネディクトとNBCの宇宙問題専門記者ジェイ・バーブリーで、かなり読み応えのある大著となっている。
本の冒頭には、この本のために寄せられたニール・アームストロングのメッセージが書かれ、物語は本の出版を待たずに世を去ったディーク・スレイトンの弔問のために、残されたマーキュリー・セブンの5人やその他の同僚だった宇宙飛行士、NASAの関係者たちが、テキサスのジョンソン宇宙センターへ集まる場面に始まる。
映画『ライト・スタッフ』ではほんの脇役でしかなかったディーク・スレイトンは、実はマーキュリー・セブンの中でも先陣を切って宇宙へ飛び出すだろうと思われた実力と実績を備えたテスト・パイロットだったのだ。彼は不整脈のためテスト・パイロットとしては最高に屈辱的な地上のデスクに16年もの長い間縛り付けられ、しかしついにはソユーズ-アポロのドッキング計画で夢を実現させる。
また、アメリカ人初の宇宙を飛んだ男として脚光を浴びたアラン・シェパードは、その後、パイロットとして致命的なメニエル氏病を発病。彼はディークと同じく地上勤務を堪え忍び、アポロ13号の事故で瀕死となったアポロ計画の命運をかけてアポロ14号の船長となり、宇宙への復帰を果たした。
映画『ライト・スタッフ』では、「カプセルに閉じこめられて飛ばされるだけ、チンパンジーにもできることをするだけだ」とテスト・パイロットたちに軽蔑され悔しい想いをしていた宇宙飛行士たちだが、彼らはテスト・パイロット時代に培った卓越した経験と資質を見事に発揮し、宇宙飛行士が優秀なテスト・パイロットであることの意義を証明していく。信じられないほど苛酷な宇宙での危険から生還するために、優秀なテストパイロットこそが宇宙飛行士に相応しいのだと。
何度読み返しても、ハラハラドキドキしながら読み急いでしまう。人類宇宙時代黎明期の一角を描く名著であると思う。
本書や映画『ライト・スタッフ』を見るにつけ気になるマーキュリー・セブンの略歴をまとめておこう。2006年に一度彼らのことをまとめたのだが、その後ウォーリー・シラーが亡くなり、存命のマーキュリーセブンは2人になってしまった。
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マーキュリー・セブン (1959年選抜)
アラン・シェパード Alan Bartlett Shepard, Jr. (1923-11-18~1998-07-21)
出身:海軍
打ち上げ:1961年5月5日
宇宙船:マーキュリー3号(フリーダム7) 打上機:レッドストーン
マーキュリーでの飛行時間:15分28秒 (弾道飛行)
メニエル氏症候群で地上勤務につき、アポロ1号と13号に乗れなくなるという幸運に恵まれた。
病を克服、アポロ14号にて5人目の人類として月面に立ち、月面でゴルフボールを打つ。
1974年にNASAと海軍から引退。マーキュリー・セブン財団総裁となる。
1998年、74歳で亡くなる。
ガス・グリソム Virgil Ivan "Gus" Grissom (1926-04-03~1967-01-27)
出身:空軍
打ち上げ:1961年7月21日
宇宙船:マーキュリー4号(リバティ・ベル7) 打上ロケット:レッドストーン
マーキュリーでの飛行時間:15分37秒 (弾道飛行,宇宙船は回収時に沈没)
ジェミニ3号”モリー・ブラウン”でジョン・ヤングと共に、最初のジェミニ有人飛行を行う。
アポロ1号の火災で亡くなり、アーリントン国立墓地に埋葬。
ジョン・グレン John Herschel Glenn, Jr. (1921-07-18~ )
出身:海兵隊
打ち上げ:1962年2月20日
宇宙船:マーキュリー6号(フレンドシップ7) 打上ロケット:アトラスD
マーキュリーでの飛行時間:4時間55分23秒 (米国初の軌道飛行)
1964年にNASAを辞職し実業家となり、1974~1999年オハイオ州から上院議員を務める。
1998年10月29日、77歳でスペースシャトル・ディスカヴァリー号で宇宙へ出、9日間滞在。
スコット・カーペンター Malcolm Scott Carpenter (1925-05-01~ )
出身:海軍
打ち上げ日:1962年5月24日
宇宙船:マーキュリー7号(オーロラ7) 打上ロケット:アトラスD
マーキュリーでの飛行時間:4時間56分5秒 (着水地点が大幅にずれた)
ウォーリー・シラー Walter Marty Schirra, Jr. (1923-03-12~2007-05-03)
出身:海軍
打ち上げ:1962年10月3日
宇宙船:マーキュリー8号(シグマ7) 打上ロケット:アトラスD
マーキュリーでの飛行時間:9時間13分11秒 (計画通りの完璧な飛行)
ジェミニ6号でトム・スタッフォードと共に、フランク・ボーマンとジム・ラベルが乗るジェミニ7号とのドッキングを成功させる。
1968年10月、ウォルト・カニンガム、ドン・イーゼルと共にアポロ7号からテレビ中継を送る。
マーキュリージェミニ・アポロ3計画を飛んだ唯一の宇宙飛行士となる。
ゴードン・クーパー Leroy Gordon "Gordo" Cooper, Jr. (1927-03-06~2004-10-04)
出身:空軍 マーキュリー・セブン最年少
打ち上げ:1963年5月15~16日
宇宙船:マーキュリー9号(フェイス7) 打上ロケット:アトラスD
マーキュリーでの飛行時間:34時間19分49秒 (マーキュリー計画最終号機)
あだ名は Hot-Dog (アクロバット技を見せる曲芸パイロット)。カウントダウン待ちのコクピットで居眠りをしたことで知られる。
ジェミニ5号で再び宇宙へ出て、初めての「宇宙へ2回行った宇宙飛行士」となる。
1970年にNASAを引退。2004年、77歳で亡くなる。同10月15日、ジョンソン宇宙センターで追悼式典。
ディーク・スレイトン Donald Kent ‘Deke’ Slayton (1924-03-01~1993-06-13)
出身:空軍
不整脈のため宇宙へ出られず、宇宙飛行士室長として長い間地上勤務。
1972年に宇宙飛行士として復帰。
1975年7月17日、51歳でアポロに乗って宇宙へ行き、トム・スタッフォード、ヴァンス・ブラントと共に、アレクセイ・レオーノフ、ワレーリー・ニコラエビッチ・クバソフが乗るソユーズ19号とのドッキングを成功させる。
1982年NASAを引退。1993年3月、癌で亡くなる。
近所の本屋さんへ。
ちょっとした380円くらいの週刊誌をネット通販するのも面倒だったから。
高校生の頃,学校帰りに小さな本屋さんに寄って,ただ何時間も本の背表紙を眺めて過ごしたものだ。そんな時間が好きだったが,本屋さんへ寄る環境がなくなり,時間もなくなり,ネット通販ばかり利用するようになり,本屋さんでゆっくり過ごす時間を楽しむ習慣は,気がつくと消え去っていた。
別にそんな時間を今更作って楽しもうと思っているわけでもないのだが,たまにちょっとそういう時間に郷愁を感じたりもする。まぁ単なる懐古主義かもしれない。
ネット通販をすると自分の購入履歴から次々と本が紹介され,興味深いと思うものがピンポイントで出てきたりするから知的好奇心を持て余して困るようなことはないが,本屋さんには違う発見がある。
一度も興味を持ったことのない分野や,好きだったけど久しく探していなかった作家の新しい本を目にしたり,手に取ったりする刺激がある。あてもなくうろついた書店の棚に気になる本を何冊か見つけ,欲しいなと思った。
積ん読本が多すぎて買うのは諦めてきたものの,そんな本たちにたどり着けるよう,秋の夜長,少しはPCから離れ読書に浸かって過ごしてみたい。そんな気がした。
読む時間なんて幾らでもある。まるでそんな風に過ごしているが,本当のところ私の人生は半分以上終わってしまったし,もう少し急がねばならないだろう。一瞬一瞬を楽しく過ごせば人生全部が楽しいよ,そう思う一方,全ての刹那をを充実させれば生涯全てが充実するよとも思う。
Learn as if you will live forever, Live as if you will die tomorrow.
自分が山を好きだってことは昔から知っていたが、川を好きだってことに気付いたのはかなり年を取ってから。京都の街へ降り立つと、必ず鴨川あたりで立ち止まる習慣を意識したときだった。
四条大橋を渡りながらキラキラ輝く鴨川の流れを眺めた初夏の朝。
納涼床と等間隔の法則に従って土手に並ぶカップルたちの狭間を散歩した夏の宵。
鴨川べりの土手に座り、川で遊ぶ渡り鳥や東山の紅葉を眺めながらハンバーガーを頬張った秋の昼下がり。
そして、北山時雨に濡れながら灰色の空を仰いだ初冬の夕暮れ。
私は京都の街中に鴨川が流れているという事実をものすごく愛しているらしい。
思い返せば、何処へ行っても川に惹かれ留まってきたのかもしれない。海にはそこまで魅せられないのに。
そして今、愛しているのは神田川。
東京で生きた数知れぬ人々のオーラに包まれたこの川には、都会の美しさが凝縮されている。そう、私にはとても美しく、痛いくらいに美しく見えるのだ、この淀んだ川が織りなす風景が。
聖橋で、昌平橋で、万世橋で、必ず私は足を止める。
かつてこの川を眺めて生きた多くの人たち、各々想いを湛えながら川面を眺め、空を仰いできたであろう歴史の向こうの人たち。今私もその一人になって、東京の街に埋もれていくことができそうだと思う。それは、たぶん幸せなこと。