猫も杓子も行かなくてよろしい

 大卒の就職内定率が68.8%だとかでニュースになっていた。
 50社も回ったが内定をもらえないという学生のインタビューや就職カウンセリングの様子などが放映されていたが,随分一面的な報道だと思った。

 「以前と比べて就職内定率がどうのこうの」という切り口がそもそも疑問。
 何故なら,最近って昔に比べたら猫も杓子も大学に行くではないか。第二次ベビーブームで増やした定員が大学修学年代の人数に応じてきちんと縮小されないままなのだから。

 文部科学省のウェブサイトの「高等学校卒業者の進路の推移」によると,昭和60年(1985年)の高校卒業者数は1,373,713人,そのうち大学等進学者は30.5%。平成17年(2005年)の高校卒業者数は1,202,738人,そのうち大学等進学者は47.3%。「以前と比べて」と言うならば,まず高卒後に進学する人が多すぎなのだ。大学というのが何をする場所なのかを考えれば,高卒人口の半分もの人が大学教育を受けるにたる器を備えているとは考えにくい。就職内定が3人に2人なら,3人に1人は大学に進学すべき人材ではなかったのではないか。

 1,373,713人(1985年高校卒業者数)の30.5%は418,982人,1,202,738人(2005年高校卒業者数)の47.3%は568,895人。568,895人のうち就職内定をもらえた68.8%は人数にすると391,399人。1985年大学入学者の就職内定率だって100%ではなかっただろうから,大雑把に考えて,日本社会で必要とされる新人ホワイトカラーの人数はだいたい40万人程度ということではないか。
 もちろん高卒後の進学といっても専門学校や短期大学など色々あろう。社会情勢も異なる。非常に乱暴な計算であることは重々承知しているが,それでもこの計算に一片の真理は含まれているだろう。

 もし私が企業の人事担当者なら50社も回って採用されなかった学生を採用する可能性はおそらくかなり低いだろうし,カウンセラーに手取り足取り就職活動を教えて貰っている学生など採用したくない。彼らは大学で一体何をしていたのかと訝しむばかりだ。大学で学んだ学問そのものは時間が経てば役に立たなくなるかもしれないが,自ら行動するために自分で調べ手法を探し出す能力こそが大学で培われるべきものではないのか。

 もちろん,こうなった責任は社会を築き上げてきた大人の方にある。上っ面だけ報道し表面的なことばかりを問題視する幼稚なやり方には,そろそろいい加減,疑問を呈し終止符を打ちたいものだ。

 それにしても,そんなに就職にあぶれている学生がいるというのに移民を受け入れることには疑問を感じないのだろうか,民主党支持者の方々?

合格祈願

群れるのは苦手

 子供の頃から今に至るまで,女性が苦手だ。いや,これはちょっと語弊があるか。一般的に女性の特質と言われる部分に私と相容れないものが多い。
 学校時代など,必ず決まった相手と一緒にトイレに行き教室を移動し下校するようなことはとてもできず,いつも一人で行動していた。かといって当時はそれほど強くなかったので,いつも一人でいるばかりに「変わり者」という冷たい視線を感じることも辛かった。どちらにしろ針のむしろ,生きていることが酷く不幸で,変わり者の自分を呪ったものだった。
 それからかなりの時間が経って年を取ったから,その時間だけ強くなった。今では仲間はずれなんて辛いと思わないが,誘いを断るのは相変わらず辛いし,かといって女性の集まりの中にいても何をしたらよいか分からず話題にも興味が持てないことが多く,ひどく居心地が悪い。

 しかし,世の女性は「女ばかり」で群れるのが好きらしい。
 「ガールズトーク」なんて言葉があるし,昨今は「女子会」なるものが盛んらしいが,何がそんなに良いのだろう? 女性同士ならではの気楽さがあるらしいのだが,女性が3人以上集まると,私は大抵の場合ダメだ。居心地悪いし,何だか興味が持てない話が多くて退屈で,ひたすら異分子の自分を感じながら時間をやり過ごすことになる。早く一人でどこかへ行きたくなって,時計ばかり見てしまう。
 別に私は人間嫌いではないのだ。人と話すのは好き。魅力を感じる人と一対一で話すのなら楽しいと思う。でも集まるのはダメ,群れるのは無理だ。
 女性ばかりで集まって世間話をするのが楽しい人たちが集まるのは文句ないが,女性である限りそういう集まりと完全に無縁でいられないのが世の中というもの。お願いだから私は呼ばないでと思うが,呼ばないのは悪いと思うのが女性なのだろう,たまたま呼ぶべきカテゴリーに含まれて呼ばれてしまう時など,困り果てる。断るのは心苦しいし苦労するが,そんな集まりは私にとって苦痛でしかない。

 以前,1週間の予定である講習会に参加したとき,私は昼休みにそれとは別の通信教育の勉強をする予定で,時間の使い方をきっちり決めていた。昼休みは一人で急いで食事を済ませ勉強にかかる予定だったのに,「一人で食事させては可哀相」と思ったらしき女性グループに声をかけられ,彼女らの善意故に断るに断れず,勉強に割くべき時間が興味のないお喋りに相づちをうつだけの時間に取って代わり,勉強のスケジュールに痛く支障を来した。善意は理解できるが,本当に放っておいて欲しかった。そんなときでも,彼女らの話を楽しいと思うことができれば気も紛れるのだが,如何せん,私には少しも興味が持てないことばかり。故にその時間は我慢大会と相成った。

 ガールズトーク(大人の女性同士の会話がどうして”ガールズ”トークなのか違和感で仕方がないが)に参加するより,私には勉強の方が比較にならないほど楽しいのだということをイヤと言うほど思い知って,その日以降,夏の暑い盛り,私は36℃を越える炎天下に駐車した自分の車の中で食事をし,そこで勉強をしてお昼を過ごした。車の中は40℃を越えているから本当に暑くて体力的にも参ったが,時間が勿体ないと悶々としながら興味のない話題に相づちを打って過ごすより,遙かに気楽で幸せだった。そんな私はたぶん変わっているのだろうが,物心がついた昔から,これが私なのだ。

 思えば「女性は電話が好き(長電話)」とか「女性は買い物が好き」に始まって,「バージンロードは女性の憧れ」なんてものに至るまで,とかく「女性は」と言われるものには不得意なものが多かった。世の中の「女性は」が偏った見解であることには違いないと思うが,傾向が皆無とも言えないだろう。そういうものに興味が持てない私に「女子会」だのが魅力的に思えないのは当然のことなのかも知れない。

 性別はどうでも良い。年齢もどうでもよい。話して楽しい人と話したい。
 例え性別が異なり年齢も離れていようとも,感性が共鳴する言葉を話す人と会話するのが楽しいし,話したいと思う時に話すのが楽しい。
 そして,好きな人と言葉を交わすのに実際に会ったり集まったりすることは,私にとって必須ではない。チャットとかメールとか,好きなときに好きな人と話せるツールが昨今の世の中には目白押しなのだ。私のような性格の人間にはあつらえたような時代の贈り物だと思う。
 お酒だって,高い飲み会代を払って煙草の煙に眉をひそめながらどこかの店で飲むよりも,自宅で寛いだ服装で,時間を気にせずPCを前に飲むのが好き。そしてtwitterなんかでたまたま会えた好きな人と乾杯したり話したりする。至福なひとときだ。

 たぶん,こんな文章を最後まで読んで下さるあなたは,twitterで飲み明かしたい相手なのかも? いつか偶然出会ったら,どうぞ宜しく,ね。

エリーさんの孤独

エコ(笑)

 「エコ」と聞けば私の頭は「エコ(笑)」と自動変換してしまう。私の中ではエコはスイーツと一緒なわけだ(?)。
 いや,別に資源の無駄遣いを推奨し,生命よ滅びるがいい!などと思っているわけではない。「エコ」だの「地球にやさしい」だのという言葉の裏に,偽善や自己満足,奢り,さらに資本の動きなんかが見え隠れし,無邪気に礼賛する気になれないのだ。

 そもそも地球が本当に温暖化しているかどうかも怪しい。50億年の歴史を持つ地球に対し,たかが10年20年のデータでどうのというのはお話にならない。今更温暖化しないと困る人たちに雁字搦めにされ,影響力のありそうな科学者などが温暖化に疑問を示そうものなら,速やかに駅のホームから突き落とされそうな勢いだ。事実,温暖化を否定する論文をマスコミは実に華麗にスルーしている。
 今の世の中見ていると,要するにまず温暖化ありき。温暖化が事実であるかどうかを真剣に議論検証する気もない人たちに,寄って集ってエコだの地球に優しいだの言われてもね。そう,たかが人間の分際でよくまぁ恥ずかしげもなく「地球に優しい」なんて言葉が言えるものだというのも感心に値する。烏滸がましいとは思わないのか? 「地球が泣いている」なんて臆面もなく言える人,神経疑うな。地球に聞いたんかよ。地球の代弁をすることに何も感じないのか?

 エコ関連商品なんかも実にアホらしくて脱力だ。要するに売りたいだけじゃん。エコって言っておけば喜んで買うバカな消費者がいっぱいいますからね,エコって言っておけば誰もが批判しにくくなりますからね,こんな便利な話はないでしょう。何も作らない,何も買わないのが一番の「エコ」だと思うぞ。ついでに言うなら死ぬのが一番エコでしょう。まぁ流石に「地球のために死にましょう」ってわけにはいかないだろうが,テレビでエコ商品を宣伝をしている暇があったら「テレビなんて消しましょう」というのがエコじゃないのかね。偽善だよ,マスコミの言うエコなんて。いや,「エコ」は「エコノミー」の略だと考えれば非常に納得なわけだがね。

 毎年夏至になると,キャンドルナイトなんて騒がれるが,これも思いっきり疑問。参加して「良いことをした」と喜んでいる知人が何人もいて疑問を呈しにくいのだが,私は毎度「何てくだらないの」と思って見ている。
 ロウソクの製造だって二酸化炭素を放出するし,市販のパラフィン製ロウソクは燃やせば多くの二酸化炭素を放出する。それに,パラフィンというからには原料は石油ですが? それをみんなで沢山消費すれば化石燃料は無くなるわ,二酸化炭素は放出されるわ,火事の危険まで生まれるわ,煤で家がよごれるわ,マイナス面の多いこと。
 単に「電気を消してロウソクをつける」ではぜんぜんエコ(ロジー)ではない。何ワットの蛍光灯1本を何時間点灯した時に使われる二酸化炭素はどれだけで,パラフィン原料の直径何センチのロウソク1本を何時間灯した時に放出される二酸化炭素はどれだけで,蜜ろうロウソクだったらどれだけ,菜種油やヤシ油ロウソクだったらどれだけで,そういうきちんとした裏付けデータを知りもせず,ちょっと数時間蛍光灯を消してロウソクを灯したからって「環境に良いことをした!」と喜ぶとは,ちょっと単純すぎやしないか。
 ま,二酸化炭素が本当に温暖化を促進しているものなのかも怪しいわけだし,考えるきっかけとか言っても別にロウソクを燃やさなくともできるわけだし。本当のところこういう運動は突っ込み所が多すぎて黙って傍観するほかなさそうな気がしている。

 で,毎年年末になると沸々と湧いてくる禁じ得ない疑問が一つ。いつも何だかんだとうるさい環境保護団体よ,イルミネーションには文句ないのか?! 幾ら発光ダイオード使っていてもかなりの電力になるだろうし,不自然な灯りは動植物らに良いとは言えませぬが?
 もちろん私は文句ない。別にいいじゃん,楽しめば。「エコ」だって私には趣味の一つにしか見えないし趣味らしく無邪気なだけならまだ文句はないのだが,「正義の押し売り」と「それに乗じた利権」の香りがプンプン漂ってくるので思わず(笑)になってしまう。商業活動が悪いなんて言わない,金儲けをするのが悪いとも言わない,大いにやってよろしいでしょう,資本主義社会なのだし。ただ,怪しげな正義の押し売りによってそれをやるところが嫌いなのだ。

光の海

twitterは寂しい?

 twitterに登録したのは2007年12月13日。
 その頃はまだ日本語インターフェイスは存在しなかった。故に日本人はほとんどおらず,知った人が誰もいない場所で英語で呟く練習をしようというのが登録の目的だった。それ以前に使っていた ICQ や Google Talk は知らない外国人に話しかけられていきなり英会話でチャットなんてことになりおちおちオンラインにできなかったが,twitter は一方的な呟きだ。各々が発信したい情報を流し,フォロアーはそれを眺める。チキンな私にはあくまで受動態でいられる安心なツールだった。
 が,思惑はすっかり外れ,やがて日本語化されてマスコミが話題にし,フォロアーが続々と増えていった。流れの速さにタイムラインを追いかけることもなくなり,下手な英語で呟くなんて恥ずかしくてやってられなくなってしまった。

 だから,今やたまーに気が向いた時,下らない独り言を日本語で呟くだけ。
 しかし,独り言を言いたいだけの私に twitterはけっこう向いているのだなと思う。話しかけられたり誰かがお返事してくれたりすることもあるけれど,気が向いたらそれに答えてしばし会話するし,そうでないときは,twitterなら無理して返事を返さなくても罪悪感にかられることもない。タイムラインは流れていくものだから。この程度の緩い場所が私には心地よい。

 だが,twitterは寂しいという意見もよく聞く。返事を期待したり,誰かとコミュニケーションをとることを第一の目的にしたい人には,呟いても呟いても見てくれている人がいるかどうかわからない,返事の保証も無い場所は寂しさ増長で虚しいのだろう。そんな要求を満たすのはSNSだ。少なくとも「足跡つけたくせにコメントくれない」なんてSNSで言っているような人たちに twitterは厳しい気がする。
 一方,「踏み逃げ? ばっかじゃねー」と思っている私,SNSは苦手だ。足跡がどうの友達がどうのと面倒くさく感じるし,スタンスが異なる人が多すぎて鬱陶しい。ついつい真面目に「友達」の期待に応えようと努力してしまうので本気で疲れ果ててしまう。

 リアルだろうがネットだろうが「誰とでも仲良く」なんて世界は苦手だし,付き合う人は少数でいい。呟きたいから呟くだけだから誰かが答えてくれる必要もない。それを期待してもいない。
 たまたま風が吹いたら誰かと繋がり会話する,話が終われば一人に戻って静かに淡々と過ごす。twitterはそれができる場所だと思う。

一人旅

羨みの呪縛

 人から羨ましがられるのは嫌い。ほぼ例外なく的外れだから。

 羨む人はおおよそ冷静ではない。素晴らしく見える相手の状況に自分を正当化する言い訳を上乗せし,自分の想像を事実であると誤認し,勝手に羨む。
 羨まれた方はいい迷惑だ。

 訂正するのもばかばかしいが,放っておくと妄想を一方的に押し付けられた気分の悪さは永久に私の上に留まってしまう。
 人の振り見て我が振り直せ。
 人を羨まぬよう気をつけよう。相手に言った瞬間,羨みはただの嫉みに変わることを肝に銘じていよう。

 羨むと褒めるは違うと思う。素敵なものを羨まず純粋に褒めることができる感性,手放しで好きだと言える心を持っていたい。

君の笑顔に乾杯